定石の再解釈

DB化の弊害として「物語がどのように展開するか先に分かってしまい、

しかもその通りに展開する」というのがあるような感じがします。

そのように先が読めすぎてしまうのも面白くないので、DB化を上手く

逆利用できるといいなあと。つまり、わざとDBを外した作りにするのに、

DBを使用するという感じで。

もしかすると構造を分解すれば要素が出てくるのではなくて、要素を分解すれば構造が出てくるという発想がデータベースには抜けているのかも。例えば最近の「ツンデレ」というのも、あれは「ツンデレ」という要素が最小単位=属性としてあるのではなく、ある構造を要素としてパッケージング化しているように考えるほうがいいと。オブジェクト志向なんて全く理解していない人間が安直に例えて言うと、[class = "tundere"]みたいになっていると考えたほうがいいのかも。

 東浩紀はデータベースを情報の羅列みたいに言うわけですが、萌え属性ってそんなにフラットなものじゃなくて文脈があるんですよね。
 例えばドジっ娘メイドっていったら単に「ドジ+メイド」なんじゃなくて、「おはようございますご主人様! 朝のお茶ですぅ」「はわわー! こぼしちゃいました!」「え……なめるんですか……?」みたいなw
 それで、まずはあるべき文脈をなぞるという段階があって、それが定着してくると今度はあるべき文脈を外すという段階が出てくるわけです。そんである外し方が定着してくると今度は裏をかいてストレート投げる人が出てきたりしますよね。森薫とか。
 んで、既定の文脈を外すことの効用は意外性に限らないと思うんですよ。それはいわば文脈の再解釈とでも呼ぶべきもので、例えばデレデレ状態のツンデレ女子が何か迂闊なことをした主人公を叱ってみたりすると、あのデレデレは堕落しきったグズグズ状態じゃなくってちゃんと芯が通ってたんだっていう再解釈が起こったりする。そこで既定の文脈は棄却されていないわけです。