大きな物語とは流行したカルトのことなんじゃないかな。

っていうコジツケを思いついたのでメモ。


流行するカルトってのは大抵「現世利益があること*1」「世の中の隠された真実を見せること*2」がセットになっておるわけですな。オウム然り、信濃町のアレも然り。
 
ゲームセンターに明日はあるの? - 親切・ワールド・イズ・マイン。

 かつてギリシアの哲学者は、同時に政治家であり、同時に法学者であり、同時に医者であり、同時に自然科学者であったりしたわけで、何かを語ろうとするとき、あらゆる知識がなければ不安になるし、特に哲学なんてものをわざわざ大学で学ぼうとする人間は、そもそも哲学が全学問の根本であるという神話をどうしてもどこかで信じている部分があって、やっぱりあらゆる知識を欲しいと思ってしまう。

 そんな思いが、戯言シリーズの「ER3システム」*2みたいなありきたりな空想を創り上げるし、その空想はやはりどうしても魅力溢れるユートピアだからこそありきたりでありうる。「ER3システム」は、「圧倒的に知識が足りない」と思う現代人にとっての限りないユートピアだ。
 
BlueskY - こんなん作ってみたけどいいのかな?


誤読をしないとセカイが見えない。誤読をするには明らかに自分が誤っている事を認識しないといけない。だから大抵の人間は大きな物語を持たない、それが大きな物語の解体って奴なんだろう。そもそも「大きな物語」ってこのエントリのキータームですら、その周辺の知識が圧倒的に足りずに誤読していると感じている。
 
白痴日記 - 誤読による大きな物語の再構築

古雑誌いろいろ読む。昭和四年発行の『グロテスク』(梅原北明の刊行していた耽奇雑誌)に、南方熊楠のことを松村武雄(神話学者)が評した

「南方氏は偉大なる百科辞典である。(中略)しかし百科辞典は、多くの事実を与えてくれるが、それに通ずる法則や、それから生るゝ結論を恵んでくれぬ。しかし事実の堆積比較から結論を抽きだすことには、多くの危険が伴う。結論を与え得る可能性を持つ事実と知らざる事実との混同が生じやすいからである。土俗民談の知識の博大において西洋の南方氏たるフレーザー氏の如き、往々にしてこの“混同の落し穴”に陥っている。南方氏が知識を与えて結論を与えてくれぬ(常にとは言わず)のは、氏がフレーザー氏以上に賢明であり、ずる賢いためであろう」

という一文があり、印象に残った。これがまず、南方学を総括しての極めて妥当なところであり、昨今の学者がもてはやす“南方曼荼羅”などは皆神龍太郎氏も先日熊楠展の感想で言っていたが、当時ロンドンで流行していたカバラ思想あたりからの借り物で、形をなしているものではないだろう。この記事に目がいったのは先日、某所で

唐沢俊一は“大きな物語”を語れないからダメだが、知識の面では当世一代限りで貴重な存在」

という評があるのを見て苦笑したばかりだったからかもしれない。私には、いわゆる“大きな物語”と若手アカデミシャンが言うものは、この“混同の落し穴”と同義の言葉としか思えない。
 
唐沢俊一ホームページ :: 日記 :: 2006年 :: 11月 :: 23日(木曜日)


大きな物語」が死んだって、これがはじめてのことなの(いきなり大きく出たな)?ずっと昔から、それこそ人類の歴史が始まってからずっと、「大きな物語」って「死に続けて」きたんじゃない?いつも。それこそ不断に死に続けてるんじゃないの?ある共同体が外の世界を知ったり衝突したりするたびに、いつだって共同体の上部構造に座する物語は死んだりピンチに陥ったりしてきたんじゃないの?それを「米ソ二極化の消滅」だけが「大きな物語の死」だなんて、自分の生きてきた時代を神話化して特権視するノスタルジーの産物に過ぎないんじゃないの?
 
伊藤計劃:第弐位相 - 敵はいつだっている。

大きな物語」と呼ぼうと「コモン・ノレッジ」と呼ぼうと「共通基盤」と呼ぼうと、どうでもいいんだけど、そういうものが崩壊しつつある(あるいはそもそもない)。

その状況の端的な具体例が、メディア状況の変質(マスメディアがもはやマスメディアとしては成立しない/情報をコントロールする立場が、送り手から受け手へと変わった)だろう。

そういう状況になると、正当性は乱立するが、正統性が成立しない。あるいは、「自分の立脚するシュギ」が社会の中でうまく立ち上がらない。あるいは、特権的なトポスを持つことが出来ない。
 
logical cypher scape - 脱構築から遠く離れて(クリップとメモ)