生活保護。「生きること」と「生活すること」の違い。

埋め草みたいなエントリで申し訳ない。
 


これまでの担当者とのやりとりの一例。

N「知人がテレビをくれると言っています。もらってもいいですか。」

担当者「ふざけたこと言うな!そんなものがなくても生活できる。」(←本当にこの通り言われた。)

N「一人暮らし用の冷蔵庫をリサイクルで買おうと思います。どうでしょうか。」

担当者「夏になって物が保存できなくなるまではダメ。」

N「リサイクルで洗濯機を買ってもいいですか。」

担当者「洗濯は手洗いできるでしょ。ダメ。」

(上記は、ほんの一例。まだまだあるよ。)

そして頻繁にある生活のチェックでは、家のすみずみまで探索されるのです。プライバシーなんて存在しないくらい。

本人見てるとかなりつらそうよ?生活保護
 
匿名はてなダイアリー - 生活保護


ようするに、孤独死も(多くの場合)選択の結果なのだ。最低限の衣食住+義務教育だけの子育ては嫌だ、あるいは仕事が楽しい or 貧乏暮らしは嫌だ(から共働きしたい)といって子どもを作らない少子化問題と同じこと。親を扶養したくない子、邪魔者扱いを甘受してまで強引に子どもの家庭に入り込む気のない親、共同生活したくない老人たちが作り出す孤独死

みな、これ以上は引き下がれないというラインを引いて、その前で戦っている。生活保護制度は、生き方へのこだわりを捨てることを要求する。自分の所得をちょっとだけしか再分配されたくない私たちは、この冷酷な仕組みを必要としている。

五分位階級別の所得の状況によれば、第二階層の収入は第一階層の2倍を超え、第三階層にいたっては4倍近い。なのに「生活が苦しい」などという。そして6倍の収入がある第四階層の人までもが、「俺には貧しい人を助ける余裕なんてない」。上ばかり見て足るを知らぬ人々は、今日もまた同情だけしてカネは出さない。
 
生活保護は過酷な選択を迫る


これについて、宮本みち子は、「妻の葬式代だけは自分で」という自立への「誇り」というものを無視するような面が、日本の生活保護の制度にはあると指摘し、そうしたことを重視する「柔軟な福祉制度」に切り替えていく必要があるのではないか、と語っていた。

「誇りを重視しない社会国家」、これは生活保護に限らず、日本という国の、とりわけ戦後のこの国のあり方をよく示しているのではないだろうか?
 
Arisanのノート - ワーキングプア・誇りについて

 
本当は痛いテレビ番組:生活保護は難しい - livedoor Blog(ブログ)
本当は痛いテレビ番組 ココログ支店: 5人殺した男に生活保護
 
この場合「生きられるだけで幸せなんだよ」と教育すべきなのか。
それとも、人々の誇りを尊重する様に制度をシフトすべきなのか。
難しい問題だよなーと思った。