感動は環境(外部)から追い立てられることで生まれるのではないだろうか?

antipop - 映画版「ハチミツとクローバー」に学ぶ、安い話の作り方

↑のはてなブックマークにコメントがあるけど。
ボクが思うに感動できないヤツに向かって「これが理解できないのはオカシイ」と間接的に脅迫することで、心の弱さに付け入って感動を創出できるんじゃないかと思ったんですよね。オタクがやる玄人の作品をコレは素晴らしいって評する時の構図と同じで『これで感動が出来ないヤツはバカだ』って脅かす。という風に感動の本質って自発的というより、外部からの絶え間ない脅迫によって追い立てられるかのように創出されんじゃないかなあ(共同体に認められたという感動は共同体からの同調圧力によって創出される)と思う今日この頃でありますが。



「一部の人には面白い」という発言を、自分の視野に入るメディアでよく見かけるようになると、それを面白いと思わない自分は仲間はずれになった気分になってしまうため、自分も面白いと言い始める。そして、どんどんそれに「面白い」という評判がついていく。
モヒカン族 - MOHI-FACT - カルト作品の人気構造

で、感動って内から生まれてくるっていうけれど、それは本当なのだろうか? なんて思ったりしてます。つまり同調圧力を生み出すためにもしくは同調圧力、屈するために感動(共感)というのがあるんじゃないかなあと。もっと言えば他人を従わせたり、他人に付き従う理由付けのためにだけ感動は存在するということなんですけれど。
みなさんはどうおもいますか?
 
追記:古都の隘路-AIRo- OPで 炎上な コードギアス
 
イムリーになネタとか見てて思うけど、これは面白いじゃなくてカッコワルイと思わないと仲間はずれだからイナゴたちが群がるってパターン。
カッコワルイと思うことに正統な理由をつけて集団で苛め抜くってのかな。必要以上に苛烈になってしまうわけ。感動(共感)のシステムの力でというか感動ってのは大量の人を動因するために使われるような気がする、炎上だのミリオンセラーだの。
炎上と感動の煽動のメカニズムってやっぱり似てそうな気がする。動因の力は紙一重、みたいな。