萌えはビョーキという仮説。連想機能不全。

ブログでボツったネタを使いまわすのもどうかと思いながらも投入。
なんか、既に誰かが言ってそうなことですが、思いついたので投稿。

「萌え」と発情はどこまで結びつくか
とか
萌え系議論の整理
の関連の話になりますが。

萌えと言うのは性交そのもの連想がたどり着く前に、性交を間接的に想起させるシンボル、たとえば女の子とか下着とかを強調して、連想が性的になってしまう前にストップさせる事なんじゃないかなあ、と想像しました。

ストックホルム症候群で恐怖が時間の経過で愛情に変わるように
萌えも性交の欲求の照れ隠しで間接的な性シンボルを強調してたら、基点にあった性交の欲求を忘れてしまう、というか。
ストックホルム症候群の症例をして恐怖が愛情と結びつくというより、恐怖が愛情にすりかわるという言い方の方がシックリくるように
萌え症候群も時間の経過によって性欲が、他のモノ。例えば『ネタ』とか『笑い』や『美的感覚』もしくは『観賞』にすりかわった。という言い方もできるんじゃないのかなあと。
心理学とか詳しくないので、このあたりは突っ込んでいただけると助かります。


「おっぱいぱんつパラダイム」は、性交への欲求を徹底的に排除する。そして、「おっぱい」「ぱんつ」のみを徹底的に希求する。これは、現実には存在しない欲望のありようである。
しかし、それゆえに、「おっぱいぱんつパラダイム」は、オタクにたいして「ここのエロは笑うためのものだ」というメッセージを明確に示すことができる。「おっぱいぱんつパラダイム」に定位することによって、オタクのエロ妄想を一旦制御し、笑いに向けることができるのである。
OTAPHYSICA - うさくん『しあわせももりんご』にみるオタク的エロネタ

引用元では「オタクのエロ妄想を一旦制御」と書いているけれど、
これを一歩進めて間接的エロ要素からエロを想像しちゃいけないという文法が萌えなんじゃないかなあと。
過程(ぱんつ)を際立てて強調することによって、その向こうにある性交という連想に到達させるのを妨げる。
で、この照れ隠しか何かで始めた性シンボルから性交を連想しない事を突き詰めると、性シンボルから性的なものを連想できなくなってしまって、独立した存在になる。その事を萌えというのではないか? という発想に思い至った次第であります。

萌えを感じられない人は萌え要素は『間接的な性交に繋がるシンボル』にしか見えないので、そこから即座に性欲を連想できてしまうために、萌えは欲情を孕むという風に理解してしまう。

単純にいうと萌えとは性欲の隠蔽のために始めた。
間接的性シンボルの強調がいつの間にかメインになってしまって、健全な性的連想が妨げられた状態なんじゃないかなあという仮説を思いつきました。

普通の人が『萌え』に嫌悪感を抱くのは、萌え要素(間接的に性交に結びつくシンボル)に性的なものを即座に連想できてしまう健全な脳の持ち主だからではないのでしょうか?

[nisemono_san]どちらかというと

潔癖症」的といったらいいのかな。この辺り難しいのだけれども、その一方で擬人化が流行っているのは不思議な感じもする印象が。あと「健全」というと難しいなあーという感じもするというか。「かわいい!」というのが「濡れてる!」というのと一緒ではないように。ただ、この比較だと「濡れてる!」は「かっこいい」でベクトルが一緒なのに対して、「萌え」と「エロ」の文化的コンテキストが一緒なのにも関わらず、そこで迂回すると考えるとわかりやすいかもしれない。つまり、「エロ」がチンコビーンなのに対して、「萌え」は「チンコビーン」を回避させるといったような。リビドー的な流れは同じだけれども。俺は一般人が萌えを嫌いなのは斉藤環氏の説、つまり「そういう訓練を受けていないから」ということのほうが正しい気がするなあ。気がするだけだけれども。で、訓練を受けてもただ単純に性欲的解釈しか生まれないのは「フェチ」なのに対して、性欲的解釈を迂回して初めて「萌え」になれるといったらいいのかなあ。というとMaybe-na氏に怒られるか?

[natu3kan]忘れた頃にレス

確かに斉藤環の言う通りで萌えへの嫌悪感はリテラシ不足っていうのは的確なんですけど。普通の人に向かって言うと、萌えがわからないのは一般人の理解が足りないみたいな強気の主張に誤解されやすいかなあと、ならいっそのこと病理にしたほうがあ、病気だからしかたねぇかって納得されやすいなあと。あ、でもソレダと萌えは病気だから治療されなければならないって話にされちゃうか。
ということで俺、失敗。