シェアードワールドとヴィジュアル=ワールドデザイン

http://d.hatena.ne.jp/tosakusha/20061006

上の続きになりますが、皆さんの意見を参考にいろいろ考えてみました。
結論から言うとシェアードワールドは絵が大事なんじゃないかという話で。
別にこうすればシェアードワールドが成功するという話ではなく
共通するシステムデザインを見つければ、シェアワールド立ち上げる時に人の興味を惹きやすくなるなるのかもなあ的な言葉遊びですが。(苦しい言い訳)

・mizunotoriさんの『質の高さが必須なのでは?』という意見

この質の高さというのが媒体によって微妙に違うらしいという事を考えました。
アニメだと話が話題になるものでも高品質というかキレイに動く絵に穴あきシナリオがシェアされやすい気がするのですが
AVG(というかエロゲ)だと月姫ひぐらし、あと七尾絵、いたる絵でも良いですが、決して絵の緻密さを要求されないというか、むしろ多少崩れているほうがシェアされやすい。逆にキレイな絵だと物語を楽しむというよりより可愛い女の子と恋愛するのをシミュレーションして楽しむ系になる気がします(エルフの同級生やらときメモでもキミキスでも良いですが)
動的メディアだと圧倒的なビジュアル(キレイな絵に血とか爆発)
静的(性的?)メディアだとむしろビジュアルが整っているより特徴的な方が良い。

あと憶測ですが、ラノベだとその中間で、めちゃくちゃ上手いともめちゃくちゃ下手というわけじゃないけど、でも誰の絵か一発でわかる程度に特徴的な絵師なイメージがある。流通量ももしかしたら好まれやすいビジュアルに関係するのかもしれない。

たとえば流通量が多いとシナリオが緻密じゃなくても絵が見栄えのあるほうが良い。(みんながシナリオの考察が得意なわけじゃないから、情報量の多さとシナリオの上手さは別)
逆に流通量の少ないメディアだと話が詰まっていて(簡単に言うと文学的)絵が絵師の特徴を持ってる程度に無骨な方が最低限に文章を補完するのに向いてるって感じ。

流通量が多いメディア(アニメとか)だと見栄えがよくて話が分りやすい方がいい。で、インディーズっぽいメディアはその逆みたいな(ひぐらしのPS版が解りやすいかな)流通量によって一極集中する場所が違うつーのかな。

(あー、何をして質の高さとするかみたいな子供の疑問っぽいヤツとかもやりたくなってきた)

情報量の多さ(魅力的なパーツ)は衒学的の一言で始末できるかもしれない。
つまり衒学性はどのメディアにも共通するけど、文学性というかお話の組み方が複雑にすべきか否かは異なるということで。

つまり、お話をしっかり作ったおたく☆まっしぐらだったからこそ、周りの人が助けて補完してくれたんじゃないのかという話。エヴァの逆ですね。つまり。

いや、ここはあえてネームバリューのお陰だ! とか自分がワナビ特有の嫉妬を起こした方がワナビらしいかなあ。

・sirouto2さんのフレームワーク問題

ちょっと話が脱線するんですが、シェアードワールドで人を集めるのに必要なのって圧倒的なビジュアルな気がするんです。
どこか刺激的なデザインというんですかね。

クトゥルフは媒体は文字ですが、神話に出てくる生物のビジュアルがとんでもないことが文字で説明されている。
奇妙な形なのが象徴として主軸になってて、世界観を把握しやすく新しく増設しやすい。

ガンダムなら、ガンダムという象徴(少数生産の高性能試作機、隊長機)とジムという量産機みたいな感じでデザインが作品の世界観を示すアイコンになってて解りやすくなっている。
オリジナルでストーリーつくっても、狂気と奇妙なバケモノにへんちくりんな名前でなんとなくクトゥルフを連想するし「パラサイトムーン@渡瀬草一郎」でクトゥルフを連想した人は少なからず居たはず。ってアレはどっちかつーとジョジョか。
ガンダムなら優秀な高性能な試作機と量産機を配置して、専用の機体にのる敵エースパイロットが出てきて歴戦の兵士も出てくれば、とりあえずガンダムっぽいなって誰もが思ってくれる。

何がいいたいかというと
シェアードワールドというのはビジュアルデザインが
そのシェアードワールドの内容を簡単に説明できうるシステムデザイン

になってて、それを真似るだけで誰でもソレっぽく出来てしまうのではないか? という感じ。

フレームワークからかなりずれましたが。
シェアするためには解りやすい『ビジュアルデザイン=ストーリーデザインの体現』なんじゃないか感じで。


・p_shirokumaさんのある程度以上のクオリティと空白混じりシステムを、消費者が好きなように埋めていくってプロセス

実は、もうネタが無いので引用になるんですが、メディアによって物語のフラグメント化というか断片というか空隙の度合いの違いというのはプレイスタイルの違いなのかなあと思いました。

私見では、STGを含めたアクションゲームとノベルゲームの違いっていうのは、物語をリアルタイムで体験できるかどうかの違いで、つまり後者は、ゲームをプレイしながら同時に物語を楽しむことができるのですが、前者ではゲームをプレイしている最中には『ゲームをする』以上のことはほとんど或いはまったくできないんですよね。ぶっちゃけて言えば、STGプレイ中、弾避けの最中に他のことを考えていたら間違いなく死にますから(笑)。
http://www.geocities.jp/sinobu_yuki_o/diary-2000-11.htm#10 [魔法の笛と銀のすず]

つまりリアルタイムで物語を感じられるものが穴だらけだと困る。
リアルタイムで考察できないSTGだと穴があった方がゲームに夢中になれる。
設定の情報量に気をとられず、純粋にゲームを楽しむ事が出来る。

で、ゲームが終わった後にビジュアルデザインと説明書やデモの設定を振り返って回想するというのかな。回想型のメディア(STGなストーリーデザイン)はイラストつきの詩みたいな方がいい。
斑鳩なんかもう詩じゃないですか。大人の絵本。

でも、普通のゲームでも回想型にする事は可能。
たとえばkanonなんか。肝になる『夢をみていた』のくだりなんか本編の明るい学園パートの合間に少しだけ入っている。
小説なら章の頭に必ずエピグラフを入れる感じ。
『短い詩→ながーい小説→短い詩→ながーい小説』にすると、短い詩(情報が穴だらけ)の部分が回想型メディアになる。
ついでに言うと詩の部分が本編からすると脱線要素であり伏線であったりもするわけですが。

[sirouto2]キャラクターとモジュール・物語化する市場・GUIの操作性

>(前回)p_shirokumaさん「申し訳程度のストーリー語りと情景描写をもとに、作品内世界を脳内で派手に組み上げて自分用物語をカスタマイズ」
HTMLとCSSのようにロジックとデザインが分離して、ブログみたいにデザインだけカスタマイズできるのが一般的になりました。IT界ではコンポーネント化・モジュール化・オブジェクト化・デザインパターン化…という大きな流れがあって、それをコンテンツ界に適用すれば、ストーリーやキャラクターのモジュール化によって、ユーザの拡張性が生じたのでしょう。


>(前回)nisemono_sanさん「実は現代的な消費作法というのは、神話の物語化」
『消費社会の神話と構造』ですね。現代の消費社会は市場の商品を物語化しますが、市場は伝統的共同体のように、整合性を保証する「大他者は存在しない」わけです。単なる競争と自然淘汰ですから。従ってキュビスム的な非整合的な意味の断片が同じ平面にあるという…要するに、「ネオエクスデス」的な神話になります。


>natu3kanさん「結論から言うとシェアードワールドは絵が大事なんじゃないかという話で。」
フレームワークの拡張性とは別の、GUIの操作性・表現性が重要だという話ですね。つまり、可能性を一定に収束させる装置です。Plaggerがインストールが面倒臭くてCUIなのと、ひぐらしの序盤が退屈で絵が猫手なのは似ていると思う。アニメ版ひぐらしはダイジェストみたいだけど、ライトユーザー用の普及版ですね。フォトショップに対するフォトショップエレメンツみたいな。整理すると、ハルヒのようにGUIが洗練されているタイプと、ひぐらしのようにCUIだけどプラグインの拡張性が高いタイプがあるわけです。