萌えの大統一理論

 萌えという言葉はそもそも明確な定義をされたことがなく、しかも普及しすぎて到底統一見解を得ることができない状態にあります。そんな中で、少なくともある一側面においてあらゆる萌え現象を説明しうる理論はないものかと常々考えていまして、議題として提供しようと思います。

 ある小説の一節があるとします。

「長戸雪が俺の袖を引いた。」

 イマイチ萌えませんね。どうすれば萌えられるでしょうか。

1:属性を付加してみる
 長戸雪が「気弱な少女」だということにしてみましょう。ちょっと萌える気がしてきました。気弱な少女である長戸雪が気弱な少女的な行動を取ることにより、みなさんの脳内のデータベースから気弱な少女の情報が引き出されてきたのではないでしょうか。例えば、彼女が主人公の袖を引く力はかなり弱々しいのではないかという気がしますね。
 では今度は、長戸雪が「黒髪をお下げにしたメガネっ娘」だということにしてみましょう。どうやら、先程と似たような効果が得られそうではありませんか? そうだとしたら、恐らくあなたの脳内データベースでは「気弱な少女」と「黒髪」「お下げ」「メガネ」が関連付けられているのです。

2:前フリしてみる
 このシーンより前に、「長戸雪が俺の袖を引くのは、甘えたいときだ。」という記述と、実際にイチャイチャベタベタしている描写を付け足したらどうでしょう。恐らく、先程の一文を読んだだけで、容易に二人のイチャベタする様子を思い出せるはずです。
 では、「長戸雪が俺の袖を引くのは、甘えたいときだ。」という記述に加え、長戸雪がツンケンした態度で主人公に接する描写を挿入した場合はどうでしょう。あなたは彼女の刺々しい態度を思い出し、そんな彼女の見せる普段と違った姿に萌えを感じるかもしれません。このへんの理屈についてはhttp://d.hatena.ne.jp/tosakusha/20060630/1151680072で少し触れました。

1+2:
 実は、長戸雪は某人気シリーズに登場する宇宙人と同一人物です。
*1

      • -

 以上のように、何の変哲もない文に萌えを付与することを考えると、「萌え」とは、“そこ”ではない“どこか”から情報を引き出すことで、より強い情動を生み出す現象のことではないか、こう俺は考えているわけです。

  • [Erlkonig]
    「“そこ”ではない“どこか”から情報を引き出す」というのは重要な発想だと思いますけれど、これは別に萌えに限った話じゃないのではないでしょうか。たとえば、部屋の中に大量のフィギュアを飾りまくった成人男性の絵を見せられたとすると、「ああこの男はきっと駄目な人間なんだろうなあ引き篭もりかそれに準じる生活をしていて彼女だって今まで一人もいなかったんだろうなあ」というイメージを(そういった情報自体は絵の中にまったく存在しなくても)喚起させられて悲しい気持ちになります。作者と受容者の共通理解を利用した記号によるイメージの喚起、というか。
  • [sirouto2]データベース論ですか

好みの共有化と更に読者による補完は分かりますけどね。元々マンガも漫符みたいな記号を共有するし、コマとコマの飛躍を読むわけです。飛躍はアニメの24コマでも残るし、逆に古典的な小説でも行間はありますから、昔からあるもので、しかし最近になってネットも含めたメディア技術の進歩で前景化してきたということでしょうか。

  • [REV]

 データベース論は、動物的なポストモダンの新規発明ではなくて、世界の記号化と記号の再構成という認知の働きをオタクの世界に適用した、そんなものだと思っています。
 なんとなくクリスタルな、創作中のブランド消費も一種の記号消費なわけで。
 アルファキュービックにレノマでフェンディでアウディーな女の子と、アルマーのナイフにケブラーのジャケットにMINIMIでハマーな女の子と、ネコ耳スク水メイド服でドジッ娘な女の子と、どこまでが萌えでどこからが萌えないのか、そのへんが興味あるところです。
 個人的には、「萌え」という現象を「空想、主として創作を『他者』と機能させることによる自己愛の充実」と考えていて、創作を『他者』として機能させるための担保として、作品の強度、場合によっては作品群の強度やユーザーグループの強度が必要になる、と考えています。他者性が強すぎると萌えないし、強度が弱すぎると、あざとくて萎えたり、キャラクターとして認識されなかったりというわけです。現代的な萌えを楽しむには、萌えソースを受け取るだけでなく、萌えDLLをインストールしなければならないのですが、そのリテラシー獲得が高速化させたのがネットワークの功績かもしれません。

    • [sirouto2]鏡像的他者

>「萌え」という現象を「空想、主として創作を『他者』と機能させることによる自己愛の充実」と考えていて
それはナルシシズムフェティシズムの鏡像関係ですね。まあもっと簡単に「箱庭」でもいいですけど。例えば青春とか恋愛とか、自分の中の喪失感を投影する、空虚なスクリーンとして機能するために、アニメ絵はデザイン的に先鋭化しています。表面上の萌えブームはすぐ飽きられて廃れるでしょうが、アニメ絵とかエロゲ塗りとかそういうものに対する執着はそう簡単には消えないでしょう。もちろんドットからトゥーンシェードまで、フェチの対象は常に変化していきますが。

[mind] 統一理論、とは大胆な試みだこと♪

>「萌え」とは、“そこ”ではない“どこか”から情報を引き出すことで、より強い情動を生み出す現象
ここから、2つの考察領域を抽出してみました。*2
a. 日本人が再発見(識別)した、人間の第6感(情動) *3
b. aを想起/開発/解発するような、記号/言語表現の、手続,技法,理論

  • a.については、ストレートな性欲と、小さくか弱きもの(女子供)への保護欲求(母性/父性本能??)との葛藤
  • b.については、それを必ずしも意識させないで喚起させるという、暗喩的な手法

という視点をまず第一にあげておきます。(たぶんつづかない;)

  • b2 (自分や、他人の)受取方…の受取方…、という鏡像関係は、b.を複雑化させる手法なのかな?

[catfist]

たとえば、部屋の中に大量のフィギュアを飾りまくった成人男性の絵を見せられたとすると、「ああこの男はきっと駄目な人間なんだろうなあ引き篭もりかそれに準じる生活をしていて彼女だって今まで一人もいなかったんだろうなあ」というイメージを(そういった情報自体は絵の中にまったく存在しなくても)喚起させられて悲しい気持ちになります。

 きゃー。実のところ、一般化しすぎのきらいはあります。情動を性欲に限定してしまえば話は楽なんですが、萌えと燃えの統一記述を見込んでたりするのでそういうわけにもいかないのでした。

飛躍はアニメの24コマでも残るし、逆に古典的な小説でも行間はありますから

 小説の行間は、“どこか”にあるものではないんじゃないかと思います。完全に新しいものってあんまり萌えませんよね。既存のDBの運用が鍵かと思っています。

 あと、書き忘れてたんですが、DBの運用に失敗した場合の萎えの問題も多少クリアに説明できると思います。先の論法によれば、ツンデレ萌えというのは『ツンデレ』という記述から『普段はツンツンしてるけど俺の前ではデレデレ』という情報を読み取っているという解釈が可能です。しかし、逆に言えば『普段はツンツンしてるけど俺の前ではデレデレ』あるいは『ツンツンしてた娘がデレデレになる』という記述をしても『ツンデレ』と省略して読み込まれてしまう可能性もある。そこで、多少のひねりを加えて全体を再解釈させる必要が出てくるわけです。『普段はツンツンしてるけど俺の前ではデレデレ、だけどたまにマジギレ』とかですね。

  • [sirouto2]

そうですか。小説の行間がどこにもなかったら「行間を読む」のは不可能ですね。例えば「電車に乗った」と書けば、切符を買ったりする場面を省略しても分かりますが、それは体験のスキーマが読者にあるからでしょう。萌えのデータベースは虚構についてのもので、もっと「お約束」性が高いと思うけど、記号一般のシステムとして捉えるなら同じことでしょう。

[kagami] 肯定的感情かな

「対象への幼い感じの肯定的感情」という感じですね。ぽわわわ〜んってな感じで(意味不明)

[mizunotori]

「萌え」というのは、こうやって複数のオタクがネット上で会話する際にのみ見られるもので、一種の共通理解のような、それも単に「私は○○が好きだ」というだけの意味しかないものではないかと、私は思います。ただ、少々「私は」が強調されていて、つまり「私は○○が好きだ」という意味で、「○○萌え」と言うのではないかと。強いて言えば、「萌え」とは個人の「好み」でしかない。
萌え系と呼ばれる漫画ラノベその他というのは、ひたすら「○○萌え」「○○萌え」と呟きつづけるオタクのあいだで醸成され腐敗した「好み」が統合したものであって、その環境が「萌え」的ではあるけれど、「統合された好み」そのものが「萌え」だというわけではないと、私は思います。でも、いまのオタク界隈ではなんだか「統合された好み」=「萌え」だと言われているような。

    • [kagami]同感です。

mizunotoriさんの意見に凄く同感ですね。統合不可能なものを観念的に統合した概念だと思います。

[catfist]行間を読む

文章に文字では書かれていない筆者の真意や意向を感じとる。

 ということで、通常小説の話で使う「行間」というのは、どこかから引いてくるものではないと思います。ただ、『電車に乗った』→『切符を買って改札を通って車体に入った』というのと『ツンデレ』→『普段はツンツンしてるけど俺の前ではデレデレ』をどう区別するのかといわれると難しい。
 そのあたりは、「対象への幼い感じの肯定的感情」*4とか「統合不可能なものを観念的に統合した概念」とかがヒントになりそうな気がします。デジ・キャラット萌え要素のキメラみたいな造形をしてますけど、それぞれの要素は、ネコミミにしろメイドにしろ、ひどく曖昧ですよね。“メイド”に対する各人の萌えはそれぞれ違っていて統合不可能だけど、それを無理やり統合して形だけにするとああなるっていう。

[kagami]これは、萌えられる対象じゃなくて萌える自分が幼いって意味でして…。

http://d.hatena.ne.jp/tosakusha/20060708/1152383665#20060708fn4
情緒的な萌えの解釈としては一般的? どこかの辞書でもロリコンという単語が使われてました。姉萌えとかはともかく、ババァ萌えとかイマイチ説明できませんけど、幼さのイメージは広く共有されてるようです。

すみません、言葉足らずでした…。「対象への幼い感じの肯定的感情」というのは、対象が幼いのではなく、自分側(萌える側)の幼い好意という意味でして。こう、自分が、「ボク5さい。あのおんにゃのこにもえ〜」みたいな。

[REV]議論が活発になってきましたね。

こうなってくると、「あなたは何に『萌える』のか」とか「あなたにとって『萌え』とは何か」とか「あなたの『萌え』の定義」とかを、200字程度(+注釈や外部リンク)で、みたいな企画もおもしろいかもしれません。全部やるとクロスレビュー的になりますね(w

*1:実は、3:描写を詳細にする という単純な手もあるんですが。

*2:エライ人が言っているそうなDB理論?については全然知らないけど

*3:cf. 虹を何個色と認識するかの文化問題。味覚で言えば、「うま味」の再発見

*4:情緒的な萌えの解釈としては一般的? どこかの辞書でもロリコンという単語が使われてました。姉萌えとかはともかく、ババァ萌えとかイマイチ説明できませんけど、幼さのイメージは広く共有されてるようです。