高い城の男*2

物語の区切りがきたところでサイコロをふってランダムに登場人物を殺す小説書いたら面白いんじゃないか? みたいな事を知り合いと話したのを思い出しました。
主人公だろうが重要人物だろうが賽の目次第で死んじゃって
場合によっては脇役みたいなのが主人公になるみたいな。
書いてるほうも展開が読めないからいいけど、ガイドラインとかアリガチが使いにくいから書くの大変だろうなあとか。

あっ、それはフィリップ・K・ディックの小説「高い城の男」がそうですよ。
高い城の男は物語の根幹となる「易」でディックが占った結果によって
物語のプロットが形成されているというメタ小説です。面白い小説なので、
もし御機会ありましたらぜひご一読をお勧めできる小説です(^^)

でも、みんな物語に展開の斬新さを求めてるかといえば別にそうでもなかったりしますよね。
ギャルゲなら女の子とまったりしたい、とか少年漫画とかだと主人公が窮地から逆転するときの感動を味わいたいとか。
主人公が血まみれボロボロなのに動いてるところに感動したいっていうか。

これはその通りだと思います。ただ、やっぱりベタな演出するにしても、
普通にベタな演出するよりも、一ひねりあった方が面白いな〜と。
車輪の国、向日葵の少女」とか上手に叙述トリックを使って、
ベタな演出に一ひねり加えていて好感が持てた作品です。

[natu3kan]ざれごと。

うわー、やべぇ、すっかり失念してた>高い城の男
手元のあるのにもかかわらず……だめだなあ、オレ。
忘れてると斬新に感じるけど、結局斬新なアイディアって出尽くされてるなあと脱力感に襲われたのでした。まる。(とお茶を濁す

普通の小説は、確かに作家の意図を読むとか思想の変遷のとかを読むのがたのしいですよね。
同じ作家の作品を読み比べて、書かれてる違いについて考えるっていうか。
シリーズ化をあんまりしないで、基本的に長篇に世界がリセットされるからってのが原因だとは思うんですけど。
シリーズ化すると、起伏ある物語進行が少なくなってその分、(その小説の世界観でいうところの)日常をが長くなる気が。
普通の小説が作家の思考(作家性)の変遷を楽しむのだとしたら。
ラノベはギャルゲよりで、他人の日常を覗くというのが重視されてるように思えますね。
普通の小説だと作家は有り難いお言葉を聞かせてくれる神官だけれども

どっかの方がラノベイリヤの空UFOの夏の二巻か一巻を評した時に
たしか、実際にあったことを噂話みたいに面白そうに伝えてるような感じ地の文がいいとか言ってて、ラノベの作家ってどっちかというと語り手に近いのかなとか思ったり思わなかったり。