シェアキャラクターで思い出したので投下

そういえば、いしいひさいちから不条理漫画(たとえば『くまのプーたろう』や『うめぼしの謎』など)のキャラクターはシェアキャラクター的だなあと思った。『かりあげクン』も記号化されているのだけれども、違うのは下のような印象がある。

  • キャラクターの「属性」から解放されている
  • キャラクターの「物語」から解放されている

ただ、その一方でほかのキャラクターの「属性」/「物語」度は高くなる(こいつが出てくるとこういう展開が行われる)という側面もある。以前にどこかで「属性は物語の兆候である」という定義を人と話をしたことがあって、どういうことかというと、たとえばツンデレなんかだと、「ツンデレ=こうこうこういう物語の展開」という規定が行われるということ。そう考えてくると「属性」のルーツはこういう不条理系の極端に形式化されたキャラクターに遡れるのかなあと思いました。雑談までに。

[sirouto2]ツンはデレの徴候

>「属性は物語の兆候である」という定義
>たとえばツンデレなんかだと、「ツンデレ=こうこうこういう物語の展開」という規定が行われるということ。
将棋の駒(キャラ)のように動ける範囲が決まることで、局面全体(物語展開)が読めるようになるということですね。そういえば『ゴールデンラッキー』とか、不条理系はキャラが極端に立っていますね。そこでは内面ではなく外見と行動の法則性しか観測者には分かりません。つまり、表層しかない。戻ってツンデレの場合は、その法則性を適度に共感できる範囲に留め、内面を適度に想像(ツンの下にデレがあるはず)できるのが、普及した理由の一つだと思います。

  • [natu3kan]

将棋の駒の譬えはうまいなあ。物語展開は読めるけど、羽生さん並の達人でもないかぎり把握しきれるわけじゃないその性質を見事に言い当ててる感じがします。

[nisemono_san]

駒というと少し違和感があるけれど、盤の大きさで考えるとスッキリくるかもしれない。つまり、盤が相対的に大きかったのが、「属性以前」であって、盤が相対的に小さくなったのが「属性以後」。だから、動ける範囲は変わらないのだが、盤が小さくなったために相対的に物語展開が単純なものに見えるという。
あと、後半の部分で、「表層だけしかない」というのには賛同するんだけど、じゃあ内面を想像するかというと俺はちょっと微妙なわけで、俺はどちらかというと「内面の表層化」という言い方をしたい。だって、「ツンの下にデレがあるはず」というのは想像であるというよりかは予言で、それはなぜかというと想像はそれこそ内面の無限後退が起きるが、そうではなく、すでに内面は決定されいるわけで、だからこそ「兆候」として捉えたいのね。本当に表層と内面が分離しているのならば「ツンデレツン」という言い方もできる(ミソはただの「ツン」ではないということ)わけで。

[sirouto2]セカイ系ではキャラが成り上がる

盤と駒の比喩を続けると、セカイ系では、盤の大きさというより、駒が成れるようになって、戦略性が一変したところがあります。つまり、終盤に入って物語のある境界線を超えたところで、突然駒の働きが変わってしまう。誰々は実は使徒だった、みたいに歩と金が同じになってしまう。重要人物がバタバタ死んだりするところは、大駒も捨てる終盤の寄せの感覚ですね。ただし、本当に最終盤で詰みが見えるまでは、natu3kanさんの言うように、局面の良し悪しと数手先しか読めません。どんな薄っぺらい萌えアニメでも、(原作がない場合)次回の展開を最初から最後まで全部予言するのは難しいでしょう。ということは、端歩の突き合いが判断に入れられるレベルになれば、マンネリのように見えて退屈しないと思うんですね。


「内面の表層化」*1は「表層だけしかない」を徹底したテーゼですね。「ツンデレツン」というのは、デレが隠されてなくてバレバレのツンのことですよね。頬を赤くして照れたりするので一発で分かる。ここでも比喩を用いると、それはある種の「仮面化」だと思いますね。顔文字(^^)は顔の文字化で、つまりは仮面です。顔文字は表情が張り付いていて、仮面をかぶった人物を欲動の存在にしてしまいます。「仮面の人物」は素顔が見えないので、情緒の機微のレベルで応答することはなく、特定の要求に関するゲームの次元に応答が制限されます。だから、掲示板というのは「掲示盤」で、顔文字は「態度の駒」なのだとも言えるのです。

*1:たぶん元ネタは柄谷辺りでnisemono_sanもそれを踏まえていると思うけど