「萌え」と発情はどこまで結びつくか

http://d.hatena.ne.jp/fujixe/20060926/1159204459
よくある議論で、要するに「萌え」というのは発情装置なのかそうではないか、という話で、恐らくここには二つの立場の人がいると思いますが、この話を議論する上でたたき台を作ってみようかな、と。俺がかんがえるのは次のとおりです。

  • 果たして「萌え」は「否認形態」として存在しているのか、それともしていないのか。否認とは要するに「それはそれとしてあるのだが、それを認めたくない」という考え方。ただし、「否認」の枠組みを使いすぎると、切断行為が容易になる(つまり、自分の考え方が絶対であることを誇示する結果となる)ので、これはある種の禁じ手。
    • 禁じ手の延長上で言うと、そのような「発情」と「対象」を分割するのをよしとする社会通念、あるいは共同体通念があるので、そのように振舞っているのか。これは想像しやすい。
  • 身体性の解除と回復という問題。あるとき話をしたのだけれども、ある種の身体性が伴うか否かの問題というのも深くありそうな気がする。身体性というのは、要するに食べて気持ちいいとか、おいしくてきもちいいとか、そういう話。もちろん、身体の快楽も社会的/言語的に構築されうるという立場があるので、そういうことができるのだが、そのような身体性を解除したときに「萌え」という感覚がありうるということができる。要するに「頭」の発情。
    • で、もっともその「身体」と「頭」が結びつきやすいのが「自慰」なのでそうなりやすいという側面があるのではないか。

[massunnk]アイロニーとしての「萌え」

「二次元の絵で抜けるのがオタク」と言い放ったのは斎藤環でしたが、彼の分析からも分かるように「萌え」というのは主に視覚的な快楽に由来するものです。*1(ちなみに友人に「デッドオアアライブ」の3DCGで抜く猛者がいますが、映像美による快楽という点でこれも広義の「萌え」に含まれるのではないか)
しかしそこで抜いてる彼らも、一方では「これは絵でしかない」と、それが「実体ではない」ということもよく分かってる。アイロニーで引き裂かれるわけです。ここはnisemonoさんの仰る「否認形態」にも通じる部分です(「それはそれとしてあるのだが、それを認めたくない」)。しかしオタクは積極的に「それ」=「視覚的快楽‐発情」の事実を認めようとする、というより認めざるを得ない。そこで作られたのが「萌え」という概念ではなかったか。ベタに「好き」とも「愛してる」なんて言っても空しいと思われる「非実体」への愛。そんな愛を表現するために「萌え」が使われてきたのだと僕は考えています。(ここまで考えるとなぜ「侘び・寂び・萌え」なのかも理解が容易なはず)
僕はラカン的な意味では「萌え」と発情はほぼ完全に結びついていると考えています。区別は不可能です、「性関係は存在しない」ので(笑)

[Maybe-na]『「デッドオアアライブ」の3DCGで抜く』ことができる人は猛者か否か

この問いには「『エロじゃないけれど〜 伍 3D画像専用掲示板』は何故こんなにも盛況なんでしょうか?」というのが答えになるかなと思うんですけどいかがでしょうか。

[mizunotori]

エロゲにおいて、日常シーンとエロシーンは、物語的には繋がりがありません。たとえHシーンをスキップしてもストーリーがわかるように作られている。それは、日常シーン(=萌え)と、Hシーン(=エロ)が、オタクの脳内で切り離されているからではないでしょうか。日常シーンは萌え脳で楽しみ、Hシーンはエロ脳で楽しむ、というような。
(純愛系の)エロゲーにおけるエロなんて、カップアイスの蓋にこびりついたアイスのようなもので、それを嘗め回すのを楽しみにする人はいても、こびりついたアイスのためにカップアイスを食べる人はいないと思います。

[natu3kan]

平面だろうが立体だろうが異性を好くということがことごとく性的なことに結びつくのなら、異性への好意である萌えも発情を疑われるのは当然だよなあ。
萌えの解釈はmassunnkさんの仰るとおり相手の(心身を)観賞して楽しむ行為で、絵だから愛がとどかねぇよーみたいなのはたぶん正しいと思うんで、ただ、萌えの扱われ方がフィギュアとかじゃないけど偶像崇拝に近い部分もあり、どのレベルまで信仰みたいになってるのか、とかはふと考える。(萌えの意味が広がって作り上げられていった純粋な)信仰と本来の欲求のせめぎあいが〜みたいな。ってなんか皆さんと同じ結論になってそうな予感……。
そんなこんなで聖母マリアたんに欲情させてください。
追記:そもそも誰か(何かを?)を好く事が自覚の有無に関わらず究極的には性的なことに結びつくといえる。という理屈にたどり着くよなあ同性愛みたいに。

追記の追記:二次元の絵で抜けるのはオタクの基準であって萌えの基準とはべつなんだもんなあ。萌えは確かに観賞を起点とするけれども。二次元のエロい絵で抜けるのは官能小説で抜けるのと同じで、情報を風景に変換できるリテラシがあるに過ぎないだけですし。萌えが欲情に繋がるという言説が小説で例えるならエロ小説だろうが歴史小説だろうが小説に感動したり、それによって作者を尊敬することが欲情に繋がるぜ! って言っている恐れはあるよなあ。もしかしたら自分を感動させた小説を書いた作家とやりたいって人がいる可能性はなきしもあらずではありますが。

[sirouto2]リンク先の言っている意味が分からない

鉄道オタクが鉄オタなのを始め、アニオタ・ゲーオタ・エロゲオタ・ラノベオタ・腐女子…など、既に区別できていると思うけど。アニメ絵美少女が好きだというのは萌えオタでしょう(虹オタもあると思う)。もっとも、「健全オタク」と「成年向けオタク」をもっとはっきりゾーニングしろというのかもしれない。


それはともかく、萌えとエロが両立するかどうか、というのは以前から議論があって、大変興味深いところです。私としては、まず「萌え=エロ」という同一区分はありえないと思います。しかし、「萌えとエロは両立不可能」とまでは考えません。不可能ではないけれど、萌えとエロを両立させるのは難しく、萌え・エロ系のコンテンツはそこが腕の見せ所になるでしょう。


具体的に言うと、例えば『未来にキスを』というエロゲ(まあ純愛系でしょう)に椎奈というキャラがいるのですが、日常パートでは激しく変なキャラ立ちをさせているので、Hシーンで違和感を感じます。ツンデレでは日常とHでかけ離れているのが魅力になるわけですが、この場合は解離が上手く埋まっていない気がします。舗装の道から砂利道に切り替わるような印象でした。
 

[p_shirokuma]

 えーと初登校です。空気読まない僕ですいません。
 
 目の前に呈示されたシーンで発情するのか?キャラで発情するのか?
 萌えていてしかも発情の時って、シーン依存度が低くキャラ依存度が高くて、だからこそ脳内補完でキャラクターを刈り込んだり装飾したりして頭ん中で食べちゃうんじゃないかな、と思うのですがどうでしょうか?例えば私の場合、アスカ教祖の場合でも発情シーンは無かったし発情に相応しいシーンも無かったわけですが、んなモン関係なく脳内でエミュレートしちまえばいいじゃないか的に、四六時中いつでも萌えることができていたと思います(キャラがさわれる状態)。シーンって、その場のエロを牽引することはあっても、萌え(或いは脳内シミュラークル形成)にどれぐらい寄与してるんでしょうか?例えばひぐらしのキャラなんかでは、シーン無しでも逝っちゃった人は結構いたんじゃないかと思うし、少なくとも同人界はそれっぽい作品がゴロゴロしてたわけで。月姫も、シーンがアレだけど琥珀さんはやっぱり琥珀さんなわけで。例えば単なるAVでエロで発情するのと、キャラ萌えで脳内で妄想たんまり膨らませて(制服姿のたま姉で)100万ボルトの自家発電エロで発情するのでは、なんか微妙に違いますよね。
 
 萌えとエロがイコールってのはあり得ない、ってのは同意。萌えててもエロじゃない事は(二次元美少女キャラだけに絞っても)あり得るし、エロくて発情しててもどうやら萌えてないらしいという事も多々経験しますよね。ただ、ホントのホントにどうしようもないほど萌えて萌えてたまらない時には、「ああ、おっぱいさわってみたいなぁ」と思う僕なわけですけど、みなさんはどうですか?AVのエロなり一枚絵のエロ二次元なりで発情する時と、文脈を持ったキャラクターにしっかり萌えた後に発情する時と、どんな相違を感じますか?
 

[p_shirokuma]

 PS:惣流さんに自分が惹かれている事に気付いた時、うわぁこりゃ抱きしめたいとか保護慾とかが出て、ちょっと経った後に「女の子として触りたい」な気分も染み出してきたような気がする。キャラをみて「犯りてぇ!」に直結するようなキャラ萌えってみたことがない、特定のシーンに発情するってのはあってもね。だけど、歴代萌えたキャラってのは、「犯りてぇ!」って感情が出てくる前に、必ずワンクッション別の感情があって、そこから発情なんなりなりに発展していったような気がする。そう回想すると、エロに比べると萌えって、ちょっとだけ恋愛の課程に似ているのかもしれない(はいはい文脈文脈とか言われちゃうかな?)。
 

[zonia]ぜんぜん考えまとまってないんですが

 漠然と思うことは、「萌え」とか「好き」とか「恋愛感情」とかがまず分離することが無理なので、「萌え∧エロ」という領域は必ず存在するような気もするんですが、問題はそこに法則性を見出したいということですよねえ。んー、とりあえず、「萌え⊃恋愛感情としての好き」というのは感じるところなので、「恋愛感情としての好き⊃性的行為への欲望」も成り立つと思うので「萌え⊃性的行為への欲望」というのはあるんじゃないかな。

 で、ここから先は考えてません。すんません。

[Erlkonig]

えーと、「いかついおじさんの意外な稚気に萌えた」とか「猫に萌えた」とか「ちんまい炊飯器に萌えた」とか萌えにも色々あると思うんですけど、そういうのも恋愛感情だったり性的なものだったりするのでしょうか。ちなみに私はジュース缶のプルタブに萌えます。

「萌え」に限らず「セカイ系」でも「本格ミステリ」でも「三大奇書」でもそうなんですけど、各々が思い思いの感覚で好き勝手に使っているであろう言葉が特に定義もされずに議論の場に上がっているのを見ていると、もしかして皆「萌え」という文字列で表せる別々の対象について言及しているのでは? と思うことがあります。漠然と軽い気持ちで「あれって萌えだよねー」「あれは萌えじゃないよねー」と言ってる間は境界部分の些細な認識のズレもあまり問題にはならないと思うんですけど、今回みたいに厳密な議論の場でも中心となる言葉の定義が宙ぶらりんのままでは、「自分は花の話をしていたつもりなのに相手は鼻の話をしていた、どうりで意見が噛み合わないわけだ」ということになりかねません。

この記事へのトラックバック元で「少なくとも私の理解では」と書かれているように、「萌え」は人によっての理解のズレがわりと大きな言葉です。今回みたいな話の場合は、エロを含む萌えと含まない萌えをそれぞれ定義し新たに名前を付けるとかして、今日からこう呼ぶことにしようみたいな方向に持っていく姿勢が必要なのではと思います。

[nisemono_san]

「萌え」も恋愛枠組に入っちゃうのかな。ただ、難しいのは純愛の場合は「性」と「愛」が裏表でなければならない(=好きでなければセックスしてはならない)とすることは言えるんだけれども、「萌え」の場合はさらに「性」と「愛」の切り離しが行われていると考えるべきか。ただし、そうなると江戸時代まではフリーセックスでしたよ!とかいう話にもなっちゃうんだと思うのだけれども。ただ、そうすると「萌え」は伝統的であるというと、それは多少違って、要するに罪悪感の違いとでもいったらよさそう。つまり、フリーセックスがフリーセックスたりうるのは、そのセックスが暴力性を持ち合わせていないとする考え方がある一方で、「萌え」が「性」と「愛」を切り離すのは、「性」が暴力性を帯びているからだ、という考え方になる。
で、ポジショントークになるのだけれども、俺が問題にしたいのは、なぜ「性」を語ることが回避されるんだろうかという点。あるいは、「性」と未分化だったものが如何にして「性」として結びついてしまうか。
別に無理してセックスを語れ、ということではなくて、なぜ自分は「萌え」は語れるけれども、「性」は語れないのだろうか、とか。だから厳密に言えば、「萌え」を定義したいのではなく(ありがちなメタ視点で申し訳ないんだけど)、「萌え」が実際に使用されている語り口を問題にしよう、ということ。この辺り、メイド喫茶の問題に繋がってくると思うのだけれども。もちろん、このきり方を採用する必然性はないけれど。