鏡の法則の法則でお手軽インスタントハンカチをつくろう

http://www.arai516.com/blog/2006/07/post_e7bc.html
natu3kanさんがクラナドよりも泣けるという炊きつけを行っている上記エントリで、ブクマコメントでも「これはひどい」というタグがつけられているのですが、俺が思うに、それなりにこれを普遍化したらお手軽にインスタントカレーが作れるのではないかと思ったのですね。だいたい分解すると次のようになるかと思うのです。これは共有項目として、各自思いついたら付け足してください。

鏡の法則の法則

  • [nisemono_san]心の問題(理解できない/されない)
    • [nisemono_san]ボクは一人じゃないんだ!
    • [nisemono_san]ボクは何も理解できていなかったんだ!
    • [nisemono_san]オレが悪かった!本当にオレってダメだ!
  • [nisemono_san]和解モノ(家族)
  • [nisemono_san]幸せは身近なところにあった!
  • [nisemono_san]うっ、うっ、うっ(ふたたび嗚咽)

[nisemono_san]思うに

ただ、これって面白くて、エロゲー例でいうならば、ますます状況を悪化させることによって、鬼畜ルートが作れるような気がするんだよなあ。あるいはB氏というのは心が自由に操れるわけだから、そういうことにしておいて、この人をどん底に叩き落した上で、なんか身体をもてあそぶとか。

[kagami]泣いたり笑ったり出来なくしてやる!

自分のブログにも書いたんですが、
http://d.hatena.ne.jp/kagami/20060704/p4
B氏って明らかにハートマン軍曹ですよね。
「ありがとうございますと毎日百回言え!!」は
あまりにハートマン軍曹そのままで
「これはギャグでやってるのか」みたいな。
でもみんな真剣に捉えているんですよね…。
世の中は不思議に満ちていると思いました。
ちなみにB氏タイプの調教師は実際にエロゲに出てきます。
夢幻廻廊の薫子さんなんかは完全にB氏タイプの調教師ですね。

http://camellia.cc/mugen.html
まず、調教のために靴下を何日も洗わずに履き続ける。
その足を「たろ」に向け「召し上がってもいいんですのよ?
ご主人様の足ですもの。きっとすごく美味しいですわよ…?」
「俺の靴を舐めろ。でなければ殺す」と言うに等しい命令に震えながら足を舐める「たろ」。
もちろんこれで終わるはずもなく、「靴下を美味しいと言いながらオナニーしろ」と命令します。
薫子:「さん、はい♪くつした、おいしい。おち○ちん、きもちいい。
くつした、おいしい。おち○ちん、きもちいい。」
薫子:「さん、はい♪くつした、おいしい。かおるこさま、だいすき。
おち○ちん、きもちいい。かおるこさま、だいすき。」
さん、は(ry
こうすることで、主人の臭いを身体で教え込むのです。これを続けることで、
いつしかご主人様の足の臭いを嗅がなければ射精できなくなってしまうのです。恐ろしい話です。
たろ:「かおりゅこひゃまぁ!おしゃせえありがとうごじゃいまふ!
くつしたでおしゃせえありがとうですぅ!かおるこしゃまぁ!かおりゅこしゃまぁ!」
人間としての尊厳を破壊されてしまう「たろ」。いくら何でも「おしゃせい」(お射精)は無いだろ。
他にも「おちんぽ」とかもう見てらんない。その様子に満足した薫子は、靴下を「たろ」に渡し…
薫子:「今夜から毎晩、その靴下を使って……わたくしのお味を思い出して……オナニーなさい」
アフターケアまで完璧な調教っぷりです。このような条件付けによる調教は宗教団体などの洗脳に
実際に使われたと聞いたことがあります。非常に危険極まりない調教描写であり、見ていて普通に
恐怖を覚えました。

ちなみに夢幻廻廊が怖い(凄い)のは、調教されて人格が破壊されたたろが、
服従することに心底から歓びを抱いているところを描き出しているところで、
1984年級の恐怖を感じました。

[nisemono_san]大笑いした

更新したら、なんかすげえ濃い反応を受け取ってしまって大笑いした!上のエントリに限らず、「水はなんでもしっている」とかその辺りの問題というのは、この法則を理解出来る人はこの法則を悪用しないということだと思っているんですよね。で、その法則が動く条件に心が清らかとか、そういう制限があると思うんですけれども、ただ純粋に法則として理解した場合、洗脳合戦とかマジックバトルとかあるいは鬼畜モノなるなあとかそういう妄想しています。例えば次のようなストーリとか。
「水」に対してバカといったら水はみるみるうち腐っていく。この技術を利用し人類の発展に貢献するのが「白水師」であり、そしてこの技術を悪用し人類を滅亡させようとしているのが「黒水師」であった――果たして水は全てを教えてくれるのか!とか。コロコロではないけれどもボンボンとかにありそうだなあ。なんだかこの辺りの擬似科学ライトノベル化したらネタには困らないような気もしてきたなあ。

ちなみに夢幻廻廊が怖い(凄い)のは、調教されて人格が破壊されたたろが、
服従することに心底から歓びを抱いているところを描き出しているところで、
1984年級の恐怖を感じました。

あー、でも上のエントリもそうで、もし息子が例えばいじめられている状況に感謝を求めるようになったりするというパターンにしたら本当に鬼畜ものだなあ。これが本当の鏡の法則ですね、みたいな。

[kagami]山文京伝さんの作品とかいいですよ〜。

もし息子が例えばいじめられている状況に感謝を求めるようになったりするというパターン
にしたら本当に鬼畜ものだなあ。これが本当の鏡の法則ですね、みたいな。

網状言論の中でも取り上げられていますが、エロ漫画家の山文京伝さんの作品はまさに
上記みたいな話が多いですよ。私が一番上手いなと思ったのは「ID −イド−」という作品で、
http://www.doujin-para.com/dojin/03s/3033S.html
暴虐な帝国に対するレジスタンスの女性リーダーが徹底的な洗脳を受けて、
全くの別人格に変貌し、最後は彼女を信じ続けるレジスタンスの仲間達を
裏切って、その仲間達を貶めることに深く歓びを感じる帝国の残虐で
淫蕩な将校になってしまう話で、非常に良く出来ていましたね。
網状言論でも述べられていましたが、人間の人格(主体)は薬物や暗示
などでいかようにも作り変えることができるという問題ですね…。

[natu3kan]山文京伝さんって味方が裏切る話、好きですよね。

というか一年くらい前までエロ本を数冊か毎月購読してた時に読んだ作品にはそんなんしかなかった。
選ばれし光の戦士たちが仲間の裏切りで負けて全員魔王の性奴隷とか

「修行しろ修行しろ」な洗脳の方も大事ですけど、登場人物に涙流させるってのも大切かなーとか。
宗教なら教祖様の弟子あたりがその役だと思いますが。
物語の登場人物を泣かせて釣られ泣かせるっていうか。泣くシーンの前後って登場人物の誰かが強い感情発露してることが多い気がします。
泣けるお話って。
感動させるエピソードが一通りたまったところで登場人物の感情を爆発させるというか。

あと、宗教に必要なのは小難しい用語というか複雑っぽいな体系を後ろにちらつかせることかと
オウムとかにも共通するけど、そういうペダントリックなのに人ってひきつけられるじゃないですか。
中高校生がひねくれて哲学とかかじりだすのって
難しそうってのに惹かれるところからだと思うというか、僕がそうだったんですけど
そういう普通の人にはわからなそうだけど、程よくそれなりに理解できる複雑さってをちらつかせるのは大切ですよね。

[kagami]知識と技術

ぺダントリーで騙せるのは、相当知識コンプレックスの強い宗教学者みたいな
アレゲな人のみで、一般の人に対する宗教洗脳の基本は場の特殊な雰囲気
(被暗示性)と、疲労させての反復暗示、そして薬物とセックスじゃないでしょうか。
一般の人はそれほど知識への渇望は抱いていないと思うのですね。
新藤冬樹氏の「カリスマ」なんか、その辺、上手に描いている
良く出来た宗教洗脳小説かなと。ぺダントリーで騙せる(知識で釣れる)ような
タイプは多分、中間管理職的な幹部に抜擢される少数タイプですね。
鏡の法則にしても知識的な裏づけを求めている支持者は少数のように見受けられますし。
多分、大勢は洗脳によって気持ちよくなりたいという単純な快楽志向が原動力ではないかなと。
ただこれはフロムの「自由からの逃走」そのまんまですね…。
もう少し深く考察した方が良さそうですね…。

[natu3kan]虹の階梯

長い文章読ませて疲弊させた後でセックスって、まるでエロゲのシナリオじゃないですか! というジョークが思いついたのでメモ。
鏡の話って薬物つかってないじゃないですか、その代わりに物語を持ってきた。
つまり、物語(教典・バイブル)も洗脳装置になってて、実はメガヒットした泣きゲーもある種の洗脳装置なんじゃないかなあ。って気がする。
有名エロゲのフォロワーみてると、あとネギま(さいきんだとハルヒとかかな?)の悪口を書くと炎上するとか(笑

[kagami]ぼくたちの洗脳社会

岡田斗司夫は正しかったということですね!(笑)
呉智英浅羽通明は、信仰するものに対して批判は可能かどうかで、知性の有無を
分けていますね。知性は、信仰を括弧に入れて、客観的に事物を判断しようとする意志であると。
その点で彼らはオタクの同人誌文化を高く評価していますね。つまり、パロディ(笑いのネタ)
にするには、パロディにするものに対する客観的な眼差しが必要であると。
この辺で、例えば、ネギまハルヒのパロディがあって、それを笑えるか否かが、
狂信者と知性あるオタクの分水嶺になっているのではないでしょうか。

  • [sirouto2]洗脳vs動物

えーと、岡田の洗脳社会論は、薬物的な洗脳とは対極だと強調してましたね。

[nisemono_san]ぼくたちのまったり革命

それいいだすとさらに宮台先生偉いということになりそうな。上のことをざっと俺文脈で構成しなおすと相対化の視野という部分が欠けているかかけていないかというところがポイントで、相対化した後に何を選択するかというのは各人の自由というそういう感じで、だけど意外と皆相対化せずにベタに信じるなあと。ただ、相対化を過信しすぎるのも問題で、大澤真幸氏などがよく述べることですが、相対化している=シニカルであるということで優越感ゲームだったり、あるいは自分が一番相対化しているよゲームにおちいったらそれはそれで問題なので、一回「テメエなんざ相対化など徹底していないんだよ」とベタなところでうっちゃりをしたりすることなんかが重要だと思います。

[mind] 「(自己)懐疑主義と(自己)批判精神」が有効

ということなんでしょうけど、そればかりだと人生つまらないので、
「どんなキャラクターにも自然に感情移入できる特殊能力」も必要かと。
 けっきょく要所要所で2つのモード切替を巧みにこなす人が、
人間関係でもおいしいところをかっさらって行ってしまうような気がしてます;
どんなヘボなシナリオでも役の中に入っていける、役者さんの頭の中を覗いてみたいかぎりですね、
――ご、ごめんなさい、名前を書き忘れてました; ――図らずも、名無しモードでの話し合いも可能だということを表してしまいましたね…

    • [kagami]名前が…

上記の書き込みされた方さん、名前を書き忘れていますよ(^^;

[syujisumeragi]うーん。

リンク先のテキストをさらさらっと読んでみました。鏡の法則ってこんなに笑える話だったんだ!

人生で起こるどんな問題も、実は、自分に何か大切なことを気づかせてくれるために起こるんです。

起きる問題は、すべて自分が解決できるから起きるのであり、前向きで愛のある取り組みさえすれば、後で必ず『あの問題が起きてよかった。そのおかげで・・』と言えるような恩恵をもたらすのです。


この根底にあるのは、すべての困難は神からの試練であるというキリスト教の発想だと思いました。

物語のなかにさらっと宗教だとか思想を盛り込むという手法それ自体はよくあることだし、むしろ自分もそういう手法を研究したいとすら思ってますけど、これはあまりにも都合のよい話で笑ってしまいました。これをマジにとる人が信じられない。「藁にもすがりたい想い」の人が増えてるってことなんでしょうか。

神からの試練というテーマだと、高校のころ読んだ遠藤周作の『沈黙』が面白かった記憶があります。中途半端な疑似科学よりも、作者がキリスト教徒だということを明らかにしているほうがいいですね。

[Vane]鏡の法則は非常にすばらしい


少なくとも、私たちに議論の種を与えてくれたましたから。


と、いう冗談は置いておいて。
人間はどこかで思考停止しなければならない(思考停止しなければ永久に考え続けなくてはならないので精神を病む)ので、どこかで絶対的にならなくてはいけないと思うのですよね。
*1
ただ、やっぱりこのレベル(鏡の法則レベル)で絶対化してはいけないだろう、とは思うのですが。


鏡の法則がそれなりに人気になっているのは単純に(人間の根本的性質である)自己放棄衝動を受け止めてくれるからでしょう。
簡単に言い換えればkagamiさんと同じように、「洗脳されたい」ということなのでしょう。


ただ、これを多くの人が回避するためにはどうすればいいのでしょうか。
できるかぎり相対的に物事をみて、その上で何かを信じるかを決める、ということができればいいのですが。

[REV]

絶対者を求める人間の心性と、絶対者による抑圧(もしくは捏造された絶対者の司祭による欺瞞)という矛盾を解決する、というのは現代を生きる我々への一つの課題です。
 これに対する答えの一つが、
 移行対象への依存とそのSATSUGAIの繰り返し、でしょう。
 http://d.hatena.ne.jp/REV/20060419#p8
 あと、9条堅持。


 もう一つがサイエンス。「鏡の法則」なる仮設を立証するために、どういう実験(調査)をすればいいのか、有権者全員が思考できればいいわけです。

[mind]

 信ずることによって実現してしまう物語(自己実現/自己充足物語)
というものはポツポツと在る。歴史的には、人権思想物語がそうであったし、モデル的には囚人のジレンマがある(研究中)。
たぶんこれは、人間が、モノゴトを観察し、人の話を聞き、よく考えて行動を決定する、という生物物理的構造に由来するのです(自然法)。
 

[mind]

 それから、『鏡の法則』の受取方のレベルなんですが、便宜的に4レベルくらいに分けてみます。

  • 事実real
    • (抽象化) →事例

 ………

    • (具体化) →リアル物語(real fantasy)、隣接世界、――ie.実現可能な物語
  • 物語fiction,可能世界

 
 あの話を事実として受け止めている人はさすがにお人好しと馬鹿にされるでしょう。多くの人は、事例か、物語として受け止めているのでは。
 事例というのは、ある典型問題を説明/解決するために、誰かさんが提示するもので、そこには、抽象化の過程で、裏の意図が絡んでくる。そして、事例とリアル物語との間には、明確な区別はない。
 あの話は、事実か事例か物語なのか、、示唆すらしてないところが非常に臭かった。「誰かさんの意図」の臭いがぷんぷん気になる人は、とばし読みしてしまって、物語の中に入っていくことも出来ないと言うわけ。
 ただ、自分が安全地帯にいることを正しく認識していれば、物語の世界に浸って、楽しんでしまった方が得なわけです。
この点について、同じ鏡の話なのに、ARIA the Natural第6話 で後輩ちゃんが鏡の前でアテネ先輩に諭される話、には何の文句も付けられないどころか、「ぁぁ、いい話だ。自分もこういうことあるよね。」って素直に思ってしまったのは何故なんでしょう…?? 「ちょびっと泣かせてやってDVDを買わしたろう」と言う制作者側の意図がぶんぷんしてるんじゃないか…!? *2

  • [Erlkonig]
    「ちょびっと泣かせてやって『DVD』を買わしたろう」と「ちょびっと泣かせてやって『許すということ』を買わしたろう」の違いがあるんじゃないかなと。前者の場合、受け手は「お話」に感動したわけですから、さらに「お話」を求めてDVDを購入します。後者でも受け手が感動したのは「お話」ですけれど、そこで彼らが買わせられるのは「お話」ではなく「鏡の法則というメカニズム」です。原因と結果に捩れがあるというか。

[mind] なるほど、

  • お話に感動させて、「お話を何回も視て楽しむ」ことに、お金を支払わせるのは、あまり臭くないけど、
  • お話(あるいは「実話」)に感動させて、「鏡の法則が現実に成立つ」という、現実の人々の思想信条を変えさせようとするのは腐臭がするというわけですね。

 しかし、DVDが60万円の壺じゃなかった…BOXだったりすると、同質で程度問題なだけのような気もしますね。。ただ、

  • fictionをfictionと判る文脈で表現すると、感情移入のメカニズムが働くけど、
  • fictionを現実だと匂わせる表現をすると、それは「うそつき」になって、不気味の谷に嵌ってしまうということなのかなぁ。

[sirouto2]物語と(擬似)科学の違い

mindさんの「ちょびっと泣かせてやってDVDを買わしたろう」は面白いですね。確かに同じようなことかもしれませんが、「この物語はフィクションであり〜」という文があるかどうかが、両者を分けるんじゃないでしょうか。鏡の法則の本を買ってないのでよく知らないですけど、たぶん「単なるお話ですから」というのではなくて、現実で通用する法則を述べたものになっているんでしょう。だから反証が出てくるわけです。一方アニメに対して「これは現実には〜」という反証はないけれど(柳田理科雄は別にして)、表現・構成・演出としてどうか〜という批判はあるわけです。

[mind]
 要は、あの記述が、新聞の記事か、物語の叙述か、つまり、★事実と★物語の2層があるということなんですけど、

  • 実は、生身の人間が捉える「事実」とは、記号の絡み合った関係に過ぎない。現実世界に対する言語化抽象が終わった段階では、新聞記事のように世界を認識しているわけです。
  • 他方、「物語」は、記号の絡み合った関係なんですけど、それに対応する(異世界の)事実も考えられます。

 ここから、「物語実在論」!?の立場に立って、この2重性を整理してみます。*3

(現実) (物語)
a.事実関係  ★現実世界  特定の隣接可能世界
b.記号関係 各者の新聞記事 ★物語テキスト

  ↑aとbとは重なり合う*4。という感じかな。
 
 そして、現実性,物語性の評価についても、
 たとえば、鏡の法則で言えば、

  • あれが物語の叙述である場合 
    • a.題材の選択が、可能世界(設定場)の選択であり、
    • b.表現技法の問題は、物語テクスト作成の際の演出の問題

と、一応区別して考えられます。*5
 ――そうすると、物語テキストの表現技法が稚拙であったとしても、題材としての鏡の法則は人々の感動を誘うgood choiceである可能性に影響はないわけです。萌理賞でもこの両者を区別して評価できたら良かったかな。

  • あれが事実の主張である場合  新聞記事がいい加減だから、鏡の法則の現実性/普遍性は証明/記述/伝達されてません(トバシ記事*6/疑似科学)。かと言って、「鏡の法則自体が成立たない」ことの証明には成らない。つまり、今のところ真偽不明です。

 ――私見では、成立つ世界も成立たない世界も論理的に可能だとは思います。現実はどうだか知りませんw
 
 鏡の法則に対して、ARIA the Natural第6話では、
なかなかgood choiceな題材を、臭くならないぐらいNatural(自然に!)演出表現伝達できていたGJ! ……ことにより、心地よく甘酸っぱい萌え感の達成、すなわち、×「DVD買わしたろう」と言う制作者側の意図がぶんぷん ○よっしゃよっしゃ、しんみりと買ったるで! と素直な賛意に表れるのでしょう♪

*1:ところで、一番相対化を行った思想家はニーチェではないかと思う。彼の哲学には体系というものが存在しない。発狂した原因もそこに一つはあると考えている

*2:A子は子持ち主婦ではなくて萌え美少女であるべきだったという話(違)

*3: http://b.hatena.ne.jp/entry/http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/kotobawa.htm

*4:特に良い新聞記事、良い物語テキストの場合には

*5: 現実の過程ではprogrammingと同じで殆ど混同するけど

*6:裏付けの取れてないまま報道してしまった記事。真偽不明のままであるところがガセ記事と違う