稲葉振一郎氏による『ゲームと共同体』をダシにする

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060629#p3
どうも三日坊主ということで、ここの公開討議もさびれていくような感じがしましたが、稲葉氏が刺激的な話をブログに出していたのでそれらをダシにして討議という形にしたいと思います。そこで大まかな形で、図を作ってみました。下がその図です。

あまりにも簡単な図ですが、要するにゲームのゲームたる所以はルールの束として記述されているということに言えるかと思っています。ルールの束が恐らく「プログラム」という場になるのでしょう。これらのルールの束は想定されるプレイスタイルを生み出し、それに派生していくという形になるでしょう。しかし、これらルールの束を人為的に束縛するやり方が生まれてきます。それが「やりこみ」という形ですね。それが下の図となります。

これは誰でも考えることなのですが、しかしルールの束がそのルールを超えていく場面というのはないのか、という問題があります。当然、そのルールが完璧に動いているとするならば、ルールをはみ出すようなプレイスタイルは存在しないでしょう。しかし、現実のゲームはそのルールが完璧に動いては居ません。バグが存在したりしますし、稲葉氏は上では述べていませんでしたか、アクションリプレイという、いわば外部からバイナリを変更する命令を当てることによって、意図的にHP:9999の状況を作り出すことができます。このようなバグプレイをしたのように表すことができると思います。

そこで、稲葉氏はプレイヤー側の創造性の問題を、公共性の問題で述べています。つまり、それまで自明的であったやりこみだとか、あるいはルールの束というものがプレイヤー同士で共有されるという状況があったのだが、近年はそれが難しくなったとまとめられています。私自身としては下の可能性を提出したいと思っています。
もしゲームというのがルールの束であるとするならば、プレイヤーは何度かプレイすることを通じてそのルールを読みつくす可能性が出てきます(参考→http://d.hatena.ne.jp/miyashow/20060701#c)。それが下の図です。

この図と上の図を比較していただいたら理解できるように、図1と図2と図3は別の側面で切れると思っています。それはプレイヤーの規則の意識の範囲を制限するか、あるいは拡張するかということです。どういうことかといえば、やりこみがルール束のある規則性だけに没入することであるとするならば、プレイヤーの視野はそれだけ狭くするように意識される。一方で、バグはどちらかというと、その規則を支えているプログラムへの問いなわけですから、むしろルール規則の外部に存在すると述べることができるかもしれません。

しかし、問題が出てきます。それは近年におけるゲーム機の拡張及び容量の増加により、そのルール規則を把握することが極端に低下していくという問題。あとは稲葉氏が指摘しているやりこみ要素を意図的に導入するというメーカー側の配慮です。この二つがあるにも関わらず/あるからこそ?ゲーム束にプレイヤーが追いつかないという問題が出てくるのではないか。

問題提起

ここから問題にするのですが、少しここで活発に参加していただいている方々を実名で名指ししてお聞きしたいと思っていることがあります。(もちろん、他の人か代わってリプライすることや、あえてスルーされるのもご自由です)

  • Erlkonigさんへ。恐らく上のような状況の中である種の公共性を帯び始めたゲームとして「アンディメンテ」の作品があると私は思っています。アンディメンテが「2ちゃんねるの面白いサイトまとめ」からファンを生み出したという波及を考えた場合、新しいゲームの公共性としてありうるのではないかと思っていますが、どうでしょうか。
    • もうすこしリプライしやすい形に直すならば、上の整理がもし正しいとするならば、むしろ公共性を帯びやすいのは、時間的にも技術的にもアイデア的にも限られた「個人レベル」のほうがルール束を視野に入れやすくなっているのではないかということですね。恐らくテストプレイヤーも限られてくるので、その範囲で如何にやりくりできるかという問題なのではないかと思っています。そこの辺りが逆に、上記の図でいうところのプレイヤーの視界に入りやすい=言及されやすいという側面を帯びるのではないでしょうか。
  • kagamiさん他へ。上の文脈で照らし合わせた場合、公共性を帯びているのは逆説的にエロゲーなのではないかと思っているところがあります。エロゲーでなくても、例えば『月姫』や『ひぐらしのなく頃に』が口コミで広がっていって爆発的なブームメントを引きこしたということを考える場合、もはや「ルールの束」ではなく、そのような解釈の多元性においてルールを超えていくような場面があるように感じられるところがあるように思われるのですが、如何でしょうか?

上記突っ込みどころ

上記の論考の突っ込みどころは下の通りかなあ。

  • あくまでもゲーム機の機能向上悪玉論というわけではない。例えば画像が綺麗になるという問題は少なくともゲーム束という問題からすれば少し外れた部分になるかなあと思ったりもする。
  • だとすると、携帯ゲームのほうが今や公共性を持ちうることが可能だというアジテーション
  • いや、そんなこというと三国志とかどうなるの?とか
  • 面白ければ言及はするからねー、単純に面白くなくなっただけじゃない?
  • [mind] (参考)『ノミック(nomic)』というメタ ゲーム

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://b.hatena.ne.jp/mind/20060602%23bookmark-2046114
http://www.jaist.ac.jp/~m-hatake/bre.htm#nomic

ゲームをしていく中でゲームの目的が決まる。
なんだか人生そのもののようでおもしろそうじゃないですか?
生きていくうちに生きる目的ができる、みたいに。

[kagami]お答え致しますね〜。

う〜ん、エロゲは結構閉鎖的なところがあるので、解釈の多元性というよりは、
共有体験の収縮(君と僕は同じ体験をした仲間だ!)みたいなのが発動して、
ファンコミュニティが同質化する傾向があり、大ムーブメントを引き起こすエロゲ
ほど、そういった同質化を引き起こすという特徴もあるので、ルールを越えてゆく
一面もあるでしょうが、一つの大ヒット作品ということで捉えると、寧ろルールに
よってファンを同質化する(解釈を同一化する)力がかなり強いように思いますね…。


ただ、エロゲーマーは一つの作品だけをやっているのではなく、複数の作品を
同時並列的にプレイしていることが多く、幾つかの作品をそれぞれ大切な
作品として自己のなかに持っていて、それは時とともに増減し変化する、
そういった帰属の多様性が、メタ・ルールとしての多様性を認可する公共圏
として機能しているところがあると思います。ノージックのメタ・ユートピア
みたいな感じですね。沢山ユートピアがあって、それぞれのユートピア
ルールの中にいるけれど、幾つものユートピアに同時並列的に多様に帰属することで、
そのルールを越えたメタ的な場に主体を持っているような感じです。

[setofuumi]

http://d.hatena.ne.jp/setofuumi/10060703
お題に関する返答になっていませんが、やりこみに関して考えていた時期があったのでとりあえず脳内を文章化してみました。長くて見にくい(記法がよくわからん)のでリンクで。

[Erlkonig]おへんじ:アンディー・メンテの公共性

えーと、公共性というのをよく理解できてないのでとんちんかんな返答になっちゃってるかもしれませんけど。

アンディー・メンテ」の作品は作者側が意図的にやりこみ要素を導入していく形になっています。逆にプレイヤー側の意図による制限プレイの話題はあまり見かけることがありません。作者に意図されたやりこみ要素の上限が高すぎる上に、ゲーム自体の難度もかなりシビアなため、プレイヤー側が自主的にルールを縛っていくという流れにはなかなかならないようです。ただし作者自身とプレイヤーとの距離が非常に近いので、プレイヤーの意見が作品に反映されやすいというのはあると思います。

やりこみに限らず、「アンディー・メンテ」全体を貫くゲーム性というか空気というか、そういうものをもルール束の範疇に含めるとするなら、「個人レベル」であるためにプレイヤーの視野に入れやすいというのはあると思います。たとえば、中心メンバーであるジスカルド氏個人の影響の強い小サークル「アンディー・メンテ」と、数百人の成員からなる企業「スクウェア・エニックス」を比べれば、プレイヤーにとってどちらがより容易に個性を把握できるかは明白です。「スクウェア・エニックスのゲームは〜」という主語の文章はそれほど沢山思いつきませんけれど、「アンディー・メンテのゲームは〜」という主語の文章はいくらでも考えることができると思います。

[sirouto2]公的領域と私的領域の区分の消失

要するにゲームの公的なルール内で、特殊なルールで私的空間を出現させるのがやりこみで、しかしメディア技術が肥大することで、ネオエクスデス的に公と私が混同されてしまうということですね。ゲームやりこみというのも読者の作家性として捉えていますが、同人ゲームがアニメ化してしまうように、商業的には先取りされてしまいます。ここら辺の事情は監視社会論と同じで、全体主義的社会は私的領域を認めないのですが、データベースの発展によってすべてが掌握されてしまうのに似ています。やりこみと隠し要素化のいたちごっこは、検索避けも検索できるようになるといういたちごっこと同じ構造です。

    • [kagami]なるほど、わかりやすいです。そうするとアンディー・メンテなんかは、良い意味で完全に私的領域を確保している感じですね。自由度とやりこみ度が高すぎて「同じプレイ」みたいのがないのが特長なんで。この辺は私よりErlkonigさんの方がもっとお詳しいと思いますが(^^)

[mind]

以下の2軸があるかと。
<ルールの枠組

  • 普通プレイ
  • アブノーマル プレイ
    • a.制限プレイ ;Colonizationで、1コロニーでアメリカ独立を目指すとか。
    • b.ハッキング ;オレがDisk解析ツールを造ったら、いつのまにかキミがWizardryのレア アイテムを積み込んで数百レベルに達してしまったとか*1

 ――まあ、これらは孤独に進めることも可能。
 
<目的、手段(=社会性、公共性)
昔のゲームを思い出すと、

  • normalな目的: ある程度やり込む、つまりゲームでの目的を果す(クリア)すると、
  • 転用、手段化: 次の段階は、ゲームを手段として、仲間内で遊ぶ、みたいなところがあった。

 ;映画世界の中に入って感動する、というのと、映画を手段(ネタ)としてあの子と親睦を図るとかいう関係?
 
 両軸は、多くの場合、同時進行で進んでいく。
最近のゲームは、*2

  • 複雑すぎたり、新タイトルが続々押し寄せたりして、やりこむことが出来なかったり、
  • そもそも自由度が少なすぎて(一本道)、新しい楽しみ方を発明できなかったりする。

 
→ターゲットの分裂、多元化

  • コアなゲームファンはMMOネトゲに流れ、
  • コンシューマ機は、DSとか、大衆をターゲットに簡単ゲームに活路を見出している模様。;コンシューマゲーム機ゲームの、映画化

 
 本来、遊び、の本質は、それ自体を目的としている、というところにあると思う。*3
そうすると、人間の"文化生活"自体が「究極の遊び」の繰返しであって、メタメタメタ…遊びであり、そこに終りはないと。
だとすれば、ゲームにおける遊びが、人生の遊びの手段として吸収されて行ってしまうのも、自然なことなのだなぁ…。
 でも遊びが何か予測もしなかった偶然?から…、物を喰って、子孫を増やして、戦争に勝って、「生き残る」という現実の"生存生活"の手段として決定的な役割を果すこともある、というのが人間という悪魔の生物の不思議なところです…!!

[setofuumi]

normalな目的: ある程度やり込む、つまりゲームでの目的を果す(クリア)すると、
転用、手段化: 次の段階は、ゲームを手段として、仲間内で遊ぶ、みたいなところがあった。

ここらへんの問題から、ゲーム製作側が変わったのではなく、先に変わったのはユーザー側ではないか、と自分は考えています。ある時期までの「ゲームをやりこむ」という行為は、一地域のゲーセンあるいは学校のクラスの中においてのリアルな競争(ファミコン時代は"友達に差をつけろ!"というアオリが一般的だったような)。もしくはコミュニケーションツールを兼ねた一人遊びであって、そこから外側へ出ると「高橋名人16連射」とかのファンタジーになっていたんではないでしょうか。そしてこの時点では、ゲームにおけるルールというものはそのゲーセンなりクラスといったコミュニティ独自のものであり、ゆえに製作者の意図しないオリジナルな「やりこみ」もそのコミュニティ内で生まれ、評価された。

これが若干変化するのが格闘ゲーム全盛期で、それまではファンタジーだったはずの部分が「大会優勝」であるとか「主要都市部ゲーセンの有名人」といった属性によってファンタジーからリアルに近づいていった、と自分は考えています。もっと遡るとゲーメストの全国スコア集計なんかがあるのかな、と思いましたが詳しくないのでパスで。

こういったリアルな「全国区とされる競技種目」が定められ、それが狭いコミュニティにも浸透しきったのが今現在の状況なんではないか、と。そしてこういった全国区化とでもいうような流れには当てはまらなかったRPGに代表されるジャンルも、web上攻略スレ、サイトの普及によって「競技種目」が決まっていき、製作側もそれに準拠するようになっていった、と捉えています。その意味でファミ通のやりこみ特集はその流れの一端を担っていた気がします。あくまで非公式な「縛りプレイ」*4に雑誌掲載という権威的なものが認められれば、ユーザー側もメーカー側もそれに乗る、というのが自然な流れではないでしょうか。あるいは初期こそ草の根的な狭いコミュニティだったwebサイトが、webの特性上だんだんと一極集中的になっていき、そこに権威が生まれた、と考えることも出来るかもしれません。

こういった状況だと、一ユーザーが独自な「やりこみ」を実行してたとして、それは狭いコミュニティ内ですらも「競争」「コミュニケーション」としての機能を発揮しにくくなっているのだろうな、と思います。これは一般的なネットゲームにおいて、「競技」的な部分から脱落した層がゲーム的な部分を嫌い、過剰に「コミュニケーション」へと傾倒していくのと関連がありそうだと感じています。まったり - オンラインゲームグループ

とはいえ、雑誌や2chYoutubeに独自なやりこみが紹介され、それが評価されるという要素はあります。ですが、それは今現在「競技種目」とされているもの(大会、雑誌のレギュレーション、メーカーの準備したやりこみ要素)に比べて圧倒的に弱い…というのが問題になるんではないでしょうか。また、かつての「独自やりこみが雑誌掲載」→「メーカーが採用」→「全国区の競技へ」という流れが無くなっているとも言えると思います*5。このサイクルの起点となる部分が生まれないのが、ゲームデザインによるものなのか、ユーザー意識によるものなのか、はたまたゲーム雑誌の保守性から来るのか、2chYoutubeの消費速度(⇔公式な競技のゆっくりとしたサイクル)によるものなのか、自分にはまだわかりませんが。

Erlkonigさんの「アンディー・メンテ」の解説からは、製作側が上のようなサイクルが回るよう力を注いでいるのが鍵になるのかな、と感じます。

[mind]

>格闘ゲーム全盛期で、それまではファンタジーだったはずの部分が「大会優勝」であるとか「主要都市部ゲーセンの有名人」といった属性によってファンタジーからリアルに近づいていった
――「不良の溜り場の荒し野郎」から、ファミコンetcによるリアル社会への認知浸透に伴って、「社会的勲章ヒーロー」への出世と♪
―― 禁欲的な求道精神(自己目的な崇高な遊び)から、出世の手段に堕ちてしまった…!

>こういったリアルな「全国区とされる競技種目」が定められ、それが狭いコミュニティにも浸透しきったのが今現在の状況
 ………
>かつての「独自やりこみが雑誌掲載」→「メーカーが採用」→「全国区の競技へ」という流れが無くなっている
――フラットなwebが、あたかも中央集権的に、localネタを選択、吸収、育成、独占、駆逐排除した、と。ゲーマーにとっても、煽りメディアにとっても、ぐるぐるのスピードが速すぎるわけか。

>一般的なネットゲームにおいて、「競技」的な部分から脱落した層がゲーム的な部分を嫌い、過剰に「コミュニケーション」へと傾倒していくのと関連がありそう
――MMOにおいても、ゲーム内目的達成派と、社会コミュ派があると。なんか、はてブの情報集約ツール派と、お気に入りサロン派みたいな対立でしょうか。そうすると、DSとか簡単ゲームについても、同じような対立はあり得そうですね。


制限/ハッキングプレイ*6と、公共性の問題については、けっきょく上のsirouto2さんが言い尽くされていて…

[sirouto2]公的領域と私的領域の区分の消失
要するにゲームの公的なルール内で、特殊なルールで私的空間を出現させるのがやりこみで、しかしメディア技術が肥大することで、ネオエクスデス的に公と私が混同されてしまうということですね。ゲームやりこみというのも読者の作家性として捉えていますが、同人ゲームがアニメ化してしまうように、商業的には先取りされてしまいます。ここら辺の事情は監視社会論と同じで、全体主義的社会は私的領域を認めないのですが、データベースの発展によってすべてが掌握されてしまうのに似ています。やりこみと隠し要素化のいたちごっこは、検索避けも検索できるようになるといういたちごっこと同じ構造です。

――フラットなwebを中心としたメディアにおいては、公私混同が進んで、バターになっちゃうとw たしかに、もし独自技を開発したら、雑誌に投稿して待つよりも、自分のblogを更新した方が即席ヒーローになれますものね♪ 究極の民主主義は、究極の監視主義/全体主義と区別できない、2重性を持つということなのかしら。今、私の考えついたことが、次の瞬間には、日本語人全員に伝わって共通認識になっちゃってたり…;
 発言が引用されて、その引用を含んだ私の発言も引用されてったり…
 

*1:少数派。戦争をしてでもサッカーに勝ちたいとか、そんな感じ。

*2:あんまりやってないけど

*3:シンプルな定義!

*4:やらしい

*5:バイオのナイフクリアーとか

*6:やらしい??