面白い作品はどこから読んでも面白い

冒頭から読み始めたら楽しむことができるのに途中から読みはじめたら楽しむことができない作品、なんていうものは存在しない

作品を楽しむというのは全体を見終わってからようやく「楽しかったな」なんて思うものではない。そのシーン一つごとに楽しむものだ。だから、面白い作品というのは一つのシーンを見ただけでも面白い。途中のシーン一つ抜き出してみても、物語の前後や人間関係の推測がそれなりに効くし、そのシーンのどこを楽しむべきなのかというのがわかりやすくできている。その楽しみを理解するために、それまで語られたはずの部分を知っている必要なんてのはない。というか、それを知っていないと理解できないような作品は、結局、そのシーンを理解すること自体ができないだろうと僕は思う。

というわけで、面白い作品というのは、それまでの情報を何一つ知っていない相手に対してもそこで何がしたいのかということを、そのシーンの何が面白いのかということを伝えることができるものなのだと僕は思う。

  • 「面白い作品はどこから読んでも面白い」
  • ⇒「途中から読んで面白くない作品はどう読んでも面白くない」

なかなか革新的な考え方だと思いました。皆さんどう思われますか。

[sirouto2]過程が重要な作品は当てはまらないのでは

ミステリの結末だけ読んでも面白くなさそうですね。倒叙はありますけど。ひぐらしも解から読んで面白いかというと微妙なところですね。

[Erlkonig]

非常に一面的な極論なのですが、リンク先で例に挙げられているような漫画作品・アニメ作品の多くの場合については、この手の判断基準もけっこう通用しそうな気もします。この主張を原理や法則と捉えると短絡的なひどい暴論になってしまいますけれど、自分に合う作品を手っ取り早く判断するための「方法論」としてならそれなりに有効そうです。リンク先の記事は方法論と原理・原則がごっちゃになっているようなので、変な印象を受けますけれど。

>過程が重要な作品は当てはまらないのでは
本人とお話してみたところ、「過程が重要な作品」であっても、それが本当に面白い作品であれば見る順番によって面白さが致命的に減じることはないと考えておられるようです。(ただし「オチだけが全ての作品」は除くという限定条件を付けておられました)

[gnt]

それはある種の映画の観かたに非常に似ていて、それはつまり
「スジやドラマや教訓なんかどうでもいいんだ!
 どこかにおれを『ハッ』とさせるシーンさえあればいいんだ!」
というやつで。こないだ銀幕会議2佐野史郎が同じようなこと言ってましたが。
ちなみに押井から映画の見方を教わったおれはそれを猛烈に支持します。

テキストベースの作品ならば、文体(や単語の選択)至上主義になります。
極端な例で言うならば舞城や町田。彼らに物語を期待して読む人はいないでしょう。

そしておれにはまだ編集権があったのですね。おどろき。