大きな物語とは流行したカルトのことなんじゃないかな。
っていうコジツケを思いついたのでメモ。
流行するカルトってのは大抵「現世利益があること*1」「世の中の隠された真実を見せること*2」がセットになっておるわけですな。オウム然り、信濃町のアレも然り。
(ゲームセンターに明日はあるの? - 親切・ワールド・イズ・マイン。)
かつてギリシアの哲学者は、同時に政治家であり、同時に法学者であり、同時に医者であり、同時に自然科学者であったりしたわけで、何かを語ろうとするとき、あらゆる知識がなければ不安になるし、特に哲学なんてものをわざわざ大学で学ぼうとする人間は、そもそも哲学が全学問の根本であるという神話をどうしてもどこかで信じている部分があって、やっぱりあらゆる知識を欲しいと思ってしまう。そんな思いが、戯言シリーズの「ER3システム」*2みたいなありきたりな空想を創り上げるし、その空想はやはりどうしても魅力溢れるユートピアだからこそありきたりでありうる。「ER3システム」は、「圧倒的に知識が足りない」と思う現代人にとっての限りないユートピアだ。
(BlueskY - こんなん作ってみたけどいいのかな?)
誤読をしないとセカイが見えない。誤読をするには明らかに自分が誤っている事を認識しないといけない。だから大抵の人間は大きな物語を持たない、それが大きな物語の解体って奴なんだろう。そもそも「大きな物語」ってこのエントリのキータームですら、その周辺の知識が圧倒的に足りずに誤読していると感じている。
(白痴日記 - 誤読による大きな物語の再構築)
古雑誌いろいろ読む。昭和四年発行の『グロテスク』(梅原北明の刊行していた耽奇雑誌)に、南方熊楠のことを松村武雄(神話学者)が評した「南方氏は偉大なる百科辞典である。(中略)しかし百科辞典は、多くの事実を与えてくれるが、それに通ずる法則や、それから生るゝ結論を恵んでくれぬ。しかし事実の堆積比較から結論を抽きだすことには、多くの危険が伴う。結論を与え得る可能性を持つ事実と知らざる事実との混同が生じやすいからである。土俗民談の知識の博大において西洋の南方氏たるフレーザー氏の如き、往々にしてこの“混同の落し穴”に陥っている。南方氏が知識を与えて結論を与えてくれぬ(常にとは言わず)のは、氏がフレーザー氏以上に賢明であり、ずる賢いためであろう」
という一文があり、印象に残った。これがまず、南方学を総括しての極めて妥当なところであり、昨今の学者がもてはやす“南方曼荼羅”などは皆神龍太郎氏も先日熊楠展の感想で言っていたが、当時ロンドンで流行していたカバラ思想あたりからの借り物で、形をなしているものではないだろう。この記事に目がいったのは先日、某所で
「唐沢俊一は“大きな物語”を語れないからダメだが、知識の面では当世一代限りで貴重な存在」
という評があるのを見て苦笑したばかりだったからかもしれない。私には、いわゆる“大きな物語”と若手アカデミシャンが言うものは、この“混同の落し穴”と同義の言葉としか思えない。
(唐沢俊一ホームページ :: 日記 :: 2006年 :: 11月 :: 23日(木曜日))
「大きな物語」が死んだって、これがはじめてのことなの(いきなり大きく出たな)?ずっと昔から、それこそ人類の歴史が始まってからずっと、「大きな物語」って「死に続けて」きたんじゃない?いつも。それこそ不断に死に続けてるんじゃないの?ある共同体が外の世界を知ったり衝突したりするたびに、いつだって共同体の上部構造に座する物語は死んだりピンチに陥ったりしてきたんじゃないの?それを「米ソ二極化の消滅」だけが「大きな物語の死」だなんて、自分の生きてきた時代を神話化して特権視するノスタルジーの産物に過ぎないんじゃないの?
(伊藤計劃:第弐位相 - 敵はいつだっている。)
「大きな物語」と呼ぼうと「コモン・ノレッジ」と呼ぼうと「共通基盤」と呼ぼうと、どうでもいいんだけど、そういうものが崩壊しつつある(あるいはそもそもない)。その状況の端的な具体例が、メディア状況の変質(マスメディアがもはやマスメディアとしては成立しない/情報をコントロールする立場が、送り手から受け手へと変わった)だろう。
そういう状況になると、正当性は乱立するが、正統性が成立しない。あるいは、「自分の立脚するシュギ」が社会の中でうまく立ち上がらない。あるいは、特権的なトポスを持つことが出来ない。
(logical cypher scape - 脱構築から遠く離れて(クリップとメモ))
感動は環境(外部)から追い立てられることで生まれるのではないだろうか?
antipop - 映画版「ハチミツとクローバー」に学ぶ、安い話の作り方
↑のはてなブックマークにコメントがあるけど。
ボクが思うに感動できないヤツに向かって「これが理解できないのはオカシイ」と間接的に脅迫することで、心の弱さに付け入って感動を創出できるんじゃないかと思ったんですよね。オタクがやる玄人の作品をコレは素晴らしいって評する時の構図と同じで『これで感動が出来ないヤツはバカだ』って脅かす。という風に感動の本質って自発的というより、外部からの絶え間ない脅迫によって追い立てられるかのように創出されんじゃないかなあ(共同体に認められたという感動は共同体からの同調圧力によって創出される)と思う今日この頃でありますが。
「一部の人には面白い」という発言を、自分の視野に入るメディアでよく見かけるようになると、それを面白いと思わない自分は仲間はずれになった気分になってしまうため、自分も面白いと言い始める。そして、どんどんそれに「面白い」という評判がついていく。
(モヒカン族 - MOHI-FACT - カルト作品の人気構造)
で、感動って内から生まれてくるっていうけれど、それは本当なのだろうか? なんて思ったりしてます。つまり同調圧力を生み出すためにもしくは同調圧力、屈するために感動(共感)というのがあるんじゃないかなあと。もっと言えば他人を従わせたり、他人に付き従う理由付けのためにだけ感動は存在するということなんですけれど。
みなさんはどうおもいますか?
追記:古都の隘路-AIRo- OPで 炎上な コードギアス
タイムリーになネタとか見てて思うけど、これは面白いじゃなくてカッコワルイと思わないと仲間はずれだからイナゴたちが群がるってパターン。
カッコワルイと思うことに正統な理由をつけて集団で苛め抜くってのかな。必要以上に苛烈になってしまうわけ。感動(共感)のシステムの力でというか感動ってのは大量の人を動因するために使われるような気がする、炎上だのミリオンセラーだの。
炎上と感動の煽動のメカニズムってやっぱり似てそうな気がする。動因の力は紙一重、みたいな。
倒錯社::公開十大ニュース
[sirouto2]萌え十大ニュース
- 「涼宮ハルヒの憂鬱」ブレイク
- 「ひぐらしのなく頃に」アニメ化・ゲーム完結
- 「Fate/stay night」関連・邪神セイバーなど
- 「MUSASHI GUN道」ネットでMADが流行
- 「THE IDOLM@STER」コンシューマ化&アニメ化決定
- 「どきどき魔女裁判!」DSタッチペンを使うギャルゲ
- 「快盗天使ツインエンジェル」パチスロで登場
- 「美少女ゲームオンライン」エロゲーツクール的サービス
- 「姉は一級建築士」VIPで制作・公開
- 「KID」倒産
せっかくだから十大ニュースやらないか? まず私の「萌え十大」から(もちろん「はてな十大」とか「YouTube十大」とか何でも)。ランキング、タイトルの羅列になってしまいましたが…、やはりハルヒの流行が今年一番の印象に残っています。前半五位までは単にネットの萌え界隈での話題量で決めました。後半は美少女ゲームにこんな可能性があるんだみたいな。最後の十位に深刻なニュース。後でブログでもやるつもりです。
面白い作品はどこから読んでも面白い
冒頭から読み始めたら楽しむことができるのに途中から読みはじめたら楽しむことができない作品、なんていうものは存在しない
作品を楽しむというのは全体を見終わってからようやく「楽しかったな」なんて思うものではない。そのシーン一つごとに楽しむものだ。だから、面白い作品というのは一つのシーンを見ただけでも面白い。途中のシーン一つ抜き出してみても、物語の前後や人間関係の推測がそれなりに効くし、そのシーンのどこを楽しむべきなのかというのがわかりやすくできている。その楽しみを理解するために、それまで語られたはずの部分を知っている必要なんてのはない。というか、それを知っていないと理解できないような作品は、結局、そのシーンを理解すること自体ができないだろうと僕は思う。
というわけで、面白い作品というのは、それまでの情報を何一つ知っていない相手に対してもそこで何がしたいのかということを、そのシーンの何が面白いのかということを伝えることができるものなのだと僕は思う。
- 「面白い作品はどこから読んでも面白い」
- ⇒「途中から読んで面白くない作品はどう読んでも面白くない」
なかなか革新的な考え方だと思いました。皆さんどう思われますか。
[Erlkonig]
非常に一面的な極論なのですが、リンク先で例に挙げられているような漫画作品・アニメ作品の多くの場合については、この手の判断基準もけっこう通用しそうな気もします。この主張を原理や法則と捉えると短絡的なひどい暴論になってしまいますけれど、自分に合う作品を手っ取り早く判断するための「方法論」としてならそれなりに有効そうです。リンク先の記事は方法論と原理・原則がごっちゃになっているようなので、変な印象を受けますけれど。
>過程が重要な作品は当てはまらないのでは
本人とお話してみたところ、「過程が重要な作品」であっても、それが本当に面白い作品であれば見る順番によって面白さが致命的に減じることはないと考えておられるようです。(ただし「オチだけが全ての作品」は除くという限定条件を付けておられました)
「かわいいが正義」の逆。心のバランスをとる。
あの時ビルがあんな風に粉々に崩れるなんて誰も思ってなかった。消防士にもビル全体が崩落寸前であることなんて伝わっていなかったし、退去命令も伝わらなかった。彼らがおそれを知らずに勇敢に振舞った理由は簡単だ。彼らは単に「知らなかった」のだ。彼らはアメリカを救った英雄というよりは、その他の死亡者と同じ、単なる犠牲者に過ぎない。一方テロリストは違う。彼らは自らの大義のために命を賭けた。自分たちがどうなるか、十分に知りつつもそれに賭けたのだ。とすればソンタグが語ったようにそれを「臆病」と形容することは出来ない。テロリストこそ自分たちが信じるものに、その「道徳的正しさ」はさておき、あえて「殉じた」からだ。
アメリカが「ワールドトレードセンター」を語る際に「テロvs英雄的な消防士」の物語を妄想してしまうのは、おそらくそうでもしないと、テロリストと釣り合いが取れない、とアメリカ人が無意識に考えてしまっていることを示す。
よく、物語で悪の大魔王や、ディストピア世界を管理する非感情的なコンピュータが(味方側の)人間の愛や大義のために通常以上の能力を発揮して特攻してくるような行動を理解できず恐れる。
魔王やコンピュータは人間の感情を理解できず効率(理性)的に動くから、非効率(感情)的に動くことが理解できない。
理性と感情でなくとも、コレが違う文化圏。たとえば欧米とイスラムなんて組み替えても成立するっていうのかな。
自分側の文化圏の大義による特攻ってのは意思が理解できるから心が動くけれど。
相手側の文化圏の大義による特攻ってのは自分の文化圏の意思では理解できないから狂気(なんで、そんなもののために死ねるのだろう?)に見えてしまうよなあ、なんて思った。
いきなりセンシティブな話になるが、暴力表現と障害者の扱いはかなり似てる。どっちもリアルには描かれないし、なかったことにされがちだ。ハンセン氏病患者やユニークフェイス、ミゼットプロレス、リアルな障害者は表現の世界では禁忌とさえされてきた。それは多くの人間が願う「美しい&かわいい&明るいを見たい」という条件から外れるからだ。そこで暴力表現と同じく加工がなされた。身体はナニだが、精神は「美しい」と。
美しいってのは、誰もが(善いことである)理解しやすいことなのかもなあ。とか。
(動機が)理解できる暴力=大義
(動機が)理解できない暴力=狂気
平等という言葉を持ち出したときに『平等に幸福』を真っ先に連想してしまい、『平等に不幸』という可能性を忘れてしまう
美しいというのが、理解しやすい整然とした要素なのかもなあ。みたいな。
ありふれた物語に於いて『辛い状況に立っているから辛い人の苦しみが分かるから善い』という可能性を思わず見てしまう、貧乏だから心が清いとかと同じロジックのドライブを回転させてしまうのは、ある種の性善説なのかなあ。
辛い状況に立っているから、周りの人を出し抜いて自分だけいい状況になろうとか。辛い状況に立っているから、いい状況の人も平等に不幸にしようとするという可能性。
たとえば、公務員叩きとか産婦人科叩きみたいに、身近で少しいい思いをしてるであろうと思ってるヤツを引きずり下ろそう(オマエもオレと同じ地獄を味あわせてやりたい)っていう行動に大抵自覚的でないのも、美しいモノもっといえば自分に理解できるものしか興味が無い。
つまり悪い、卑しい状況にいる我々はすべからく善人と思っているという理解の現われなのかもなあとか、まとまりの無いまま終わってみる。
『我々』でない卑しいものや卑しくないモノは理解できないのでとりあえず悪ってのが政治家やホームレス、ニートとかを見下す姿勢なのかも。
だれか、うまくまとめてくれるとうれしい。
[zonia]まとめじゃなくて疑問というか思ったこと
あー、strawmanはこの文脈で言えば自分の文化圏で理解できないものを理解する試みなのかな?
[natu3kan]
>自分の文化圏で理解できないものを理解する試みなのかな?
ってことですかね? たぶん。
なんかとりあえず話しているうちにたたき台になったらいいなあってイメージです。かなりアバウトです。はい。
あと、どうして理解できないことをドラマ化してしまうのか? ってのも触れたい気がします。
[setofuumi]
全くまとめるつもりがなくて申し訳ないんですけど、「狂気」を「理解不能なもの」とイコールで繋いでしまうとやや違和感があります。自分の感覚だと、理解はある程度可能なんだけれども受け入れられない、そしてその受け入れられないことの説明や解釈ができない(あるいは困難な)ものが「狂気」。また受け入れられない理由が明確な場合(つまり正義、大義がある場合)は「悪」と呼ぶ、といったような具合。
例に挙がってるようなのはあまりそういう感じではなくて、「素で理解できない」「はなから理解しようと思わない」「理解以前の段階で危険」といった感じなんですけど、自分の感覚だとそういうのは単純に「邪魔者」「部外者」あるいは「危険要素」といった言葉の方が近いような気がします。冒頭の引用部分からすると、「理解できるが否定する」と「理解できないので否定する」だと前者の方が「大義」の格好としては美しい、という話なのかな。あと「理解できない」「危険要素」というカテゴリだと天災とそう変わらないわけで、それはどっちかっつーと憎悪ではなく畏怖、畏敬の対象だよな、とか思いました。
後半部分のところはなんというか、「正義、大義」をはっきりと構築できる過程を持たなかった(持てなかった、あるいは失った、奪われた)人がその「過程」をアクティブに求めた結果というのが"「邪魔者」の発見"だった、といった感じでは。
[sirouto2]善悪の近代的分割と、その残滓=幻想
911テロでは主奴の弁証法ということが言われました。支配的な体制およびその下にいる者は、失う物があるので犠牲を払えず、主人の方が主体的に振舞えないという逆説的情況のことです。理系的に考えればゲーム理論の瀬戸際戦略的なことでしょうか。
悪と狂気の混同に関しては、興味深い問題提起だと思います。「公明正大」というように、公共的で明示的で正統的で普遍的(大多数的)なものが善とされます。つまり集団全体の共約的な行為の規範です。しかし、近代以降は善悪の分類の恣意性・構築性が注目されます。何か。
例えばよくネットで著作権が議論になりますが、特に情報技術のようにアーキテクチャーの進歩によって環境が一変する分野では、何が善で何が悪かというのは自明ではなく規約的なものです。無断リンク禁止問題なんかも感覚で決められないでしょう。
そのように善悪は議論の中で相対化しえますが、狂気はそれとは一線を画した、ある種の絶対的な境界を感じさせます。だから通俗的な作品では狂気=悪の図式が安易に用いられやすい。しかしここで、逆に狂的で白痴的な享楽を核にして共同体が成立することがあります。それが「幻想」がもたらす全体性です。具体的には(マス)メディアのスペクタクルが体現します。
[zonia]てきとうにまとめてみた
理解できる | 理解したい | 共存したい | 脅威である/怖い | 相手に対する認識・態度 |
---|---|---|---|---|
× | × | × | × | 見下し |
○ | × | × | × | 無関心 |
× | ○ | × | × | 興味 |
× | × | ○ | × | |
× | × | × | ○ | 狂気・畏怖 |
○ | ○ | × | × | 興味 |
○ | × | ○ | × | ストーカー |
○ | × | × | ○ | 敵対視・悪・回避 |
× | ○ | ○ | × | 興味 |
× | ○ | × | ○ | 研究対象 |
× | × | ○ | ○ | |
○ | ○ | ○ | × | 仲間・友達 |
○ | ○ | × | ○ | 研究対象 |
○ | × | ○ | ○ | |
× | ○ | ○ | ○ | |
○ | ○ | ○ | ○ | 同盟 |
こういうレイヤーのとり方でいいんだろうか。
[natu3kan]
ああ、確かにそんな感じですね。表にするともっと判りやすくなった気がします。
ヒトの形をまとっているものは予測不可能な天災であっても人の所為にしてしまう、というかヒトの作為があったように錯覚してしまってましたよ自分。
なんか、産婦人科騒動と同じ感じで。
手を尽くしたのにダメなら人災……みたいな。
[mind] 真・善・美とか、個人/集団の価値観(モノサシ)について
問題意識として、真・善・美の一般基準(モノサシ)があったら便利なんだけど…。
>美しいってのは、誰もが(善いことである)理解しやすいことなのかもなあ。とか。
>受け入れられないことの説明や解釈が困難なものが「狂気」。
>情報技術のようにアーキテクチャーの進歩によって環境が一変する分野では、何が善で何が悪かというのは自明ではなく規約的なものです。無断リンク禁止問題なんかも感覚で決められないでしょう。…善悪は議論の中で相対化しえますが、狂気はそれとは一線を画した、ある種の絶対的な境界を感じさせます。だから通俗的な作品では狂気=悪の図式が安易に用いられやすい。
> ×理解できる ×理解したい ×共存したい ○脅威 => 狂気・畏怖
――「説明が必要なの?」と小娘に焚き付けられてしまいそうだけども;
美とは ――{美人と平均顔との感覚関係 をとっかかりに。
理論的に説明/理解困難な場合、観察dataから帰納的に考える手法もあり。理詰めじゃなくて、感覚的/統計的に。
(平均顔ギャラリー)http://www.hc.t.u-tokyo.ac.jp/facegallery/index.html
(「美人」の定義)http://www.timebooktown.jp/Service/clubs/00000000/f04/f04_02_02.asp
(勝手な要約)
年頃の女性の顔の特徴を平均化すると、ノイズが消えて(平均顔)、あら結果的に「美人」が出来上がる、理論的には摩訶不思議!?
平均に近づく程ちょっとずれただけで大きな減点。平均から外れすぎると識別記号化。両者の間に「不気味の谷」が観察され。
善 =美しい行動規範,行動の美学
真 =美しい現実シミュレーションモデル,(機能美を持つ)機能的なモデル
……美しい国
と考えて行けば、いろいろな「価値」に一般化できそうです。
(その他の資料)http://b.hatena.ne.jp/mind/20061122
理論的説明も考えてみましたが…。小娘に一蹴されてしまいそうなのでまた今度。
闕語としての萌え。
七里の鼻の小皺 - 対象をもたない愛(1)――「萌え」・「大切な何か」・『トップをねらえ2!』・『Anisopter』
眼が醒めるような萌えの解釈。
上の記事が凄かったので、たたき台に萌えとか語りたいなあとか思ったのだけれど、思いつかなかったので、とりあえずメモだけ。萌えが届かぬモノへの邁進、いいかえればよく皆が希求し、でも掴めずに口々に口ずさむしかない「永遠の愛」とか「大切な何か」みたいな形容しがたいイデアなのではないか、みたいモノじゃないのかって指摘は鋭いなあと。性欲の隠蔽とか考えてたのですが実は「性欲」がメインじゃなくて『隠蔽』がメインというかそういう感じがしてきた。語りえないことや語りたくない大切なことを隠蔽するというか、それを直接語らずに素晴らしさを表せるというか、そういう効果みたいなのを感じました。
こう、その解釈では萌えの一側面しか捉えられないとか、やっぱり性欲だとか、なにか意見がある人は、コメントよろしくお願いします。
追記:語りえぬ愛(美?)には萌えねばならない?
[sirouto2]永遠の愛と刹那の恋
(固有の人格に対する近代的な)「愛」と「萌え」は対極的ですね。「ネコミミ」とか「スク水」とか「貧乳」とか表層の要素への執着が萌えでしょう。萌えは夢中にはなるけど飽きるから「永遠」は大袈裟ですね。萌えは子供っぽいところがあって、むしろ「刹那の恋」だと捉えています。「あ、いまの眼鏡を掛け直す仕草萌えた」みたいな。まだしも「燃え」の方が近いでしょうが、直接「永遠の愛」ではなくて、永遠の愛を見出せそうな魅惑的な徴候(一目惚れ的な何か)、という位ですか。ただ、泣きゲとか萌え要素オンリーじゃない気もします。
[guest]
# nanari 『nanariです。とりあげていただいて、ありがとうございます。この言葉の現在の使われ方からすると、「萌え」は、「フェティッシュな性欲」として理解されてしまうのかもしれません。ただ、歴史的な視点を失わずにおくなら、この感情が、たとえば手塚の宝塚への憧れや、宮崎の白娘に対する不可能な恋などと、無関係であるとは言えないのでしょう(この点については、ブログであびゅうきょについて書いた際に、少し触れました)。「萌え」は、ある種の「集団的なフェティシズム」かもしれませんが、しかしフェティシズムは、性的消費行動だけの問題ではありません。それは、失われた何か(フロイトにしたがうなら母親の男根)を回復しようとする欲望の表現でもあるわけです。「萌え」の現在は、データベースに基づいた消費のメカニズムによって記述しうるものなのかもしれません。しかし、その消費を駆動している欲望自体について考える余地は、まだ残されています。
正直なところ、「萌え」という言葉によって想起される市場の消費原理について語ったり、あるいは、その言葉の現在の使用法を一義的に定めようとすることには、あまり惹かれません。むしろ、「萌え」という言葉をとおして明らかになってきた、日本の広義のマンガ史に潜在する、ある欲望の系譜、不可能な恋情の系譜に、大変興味をそそられます。こうして「萌える」という感情を、現在の使用法とその受け取られ方から解放して、より広い文脈でとらえ返す必要があるように思います。』 (2006/11/07 08:21)
[natu3kan]閾値が一時的にでも突破したら萌えって感じですね。
刹那の恋かあ、たしかに。あと自分が「永遠の愛」というくだりを使ったのは永遠という長さよりも歌謡曲とか詩みたいなモノで語られる「形容できないけど伝えたい何か」という意味というのか、語れば語るほど笑われるし自分すらバカバカしくなるのに希求してしまうモノという文脈で引っ張ってきたかっただけなので、sirouto2さんの解釈でいいと思います。伝えたいけれど語れば語るほどバカにされる。「努力すればむくわれる」とか「闇の向こうには光があるんだ」的な言い回しとしての「永遠の愛」とか「世界中の人は分かり合える」みたいなモノといえばいいのかな、ふとした相互理解でソコから無限や永遠を幻視してしまうけれど、客観的に見るとそれが無意味な楽観性であると認識できてしまう(人がもつメタ認知能力が生む)物悲しさっていうのかな。
[sirouto2]真実の愛と虚構の萌え
- >「形容できないけど伝えたい何か」という意味
- >ふとした相互理解でソコから無限や永遠を幻視
それは「真実の愛」というときの「真実」ですね。「真実の愛」「事実の性」「虚構の恋」という、「聖-俗-遊」みたいな三図式を考えています。古典的な「大人」は恋→性→愛という成長(結婚が典型的)をするけれど、現代的な「オタク」は大人の愛からズッコケて、更に(異性との)性からもズッコケて、可能的で虚構的で表層的な萌えという形でのみ、恋愛的な次元に関われるという、そういう悲喜劇だと思います。ただし、実は「真実」と「虚構」は紙一重なのと、「燃え」はもう少し熱いという部分は興味深いです。
[natu3kan]虚構とは不変である事? 永遠と真実の不変性。
真実も永遠もある種の不変であるという意味での虚構性は等価じゃないですか。
真実はいつも一つ! とか体は子供で頭脳は大人な小憎いヤツがのたまうくらいですし。(でも事実は一つだけど真実と本当のことはそうでもないわけで)
たぶん、自分が「真実の愛」という言葉に思い当たらなかったのが、愛という文脈が通常は真実の心という意味で使われるからなんだろうなあ。とか思いました。ギャルゲに於ける愛は常に真実じゃないですか。『秘められた思い=常に真実』みたいな。
たとえば。愛について何かというのを疑うって視点がゴッソリ欠けてる。愛を疑うとまあ「天使のいない12月」みたいなこの愛はお互いの一方通行で『互いの愛の形は違うから愛し合っていても通じ合うことがなく一生、平行線のままないんだー』みたいなある種の鬱ゲーみたいなのになるわけで。なんつーのかな、虚構性は不変性のことを言うのかもしれないですね。サザエさんじゃないけれども。と萌えから脱線してしまいました。
[sirouto2]萌え空間は可変の虚構
- >真実も永遠もある種の不変であるという意味での虚構性は等価じゃないですか。
- >ギャルゲに於ける愛は常に真実じゃないですか。『秘められた思い=常に真実』
「愛」も虚構という点では同じですけど、産まれた子供の面倒を見ろとか、そういう現実の責任まで求められますね。対してギャルゲの『秘められた思い=常に真実』は、基本的に(片想いの)恋だと思う。「常に真実」というのは、外部からチェックしようがないから真実という感じですね。例えばセカイ系はきみとぼくの宇宙だから。それに「萌え」にはもっと可変性・消費性があるような気がします。つまりハーレムで色々なタイプの女の子がよりどりみどりとか。色々な服を着せ替えられるとか。そもそもギャルゲ内でも恋愛のことを萌えだといっているわけではないですし。私自身としては、萌えの根本的な幼稚性・退行性を押さえた上で、それでも可能性を見ていこうと考えています。
萌えはビョーキという仮説。連想機能不全。
ブログでボツったネタを使いまわすのもどうかと思いながらも投入。
なんか、既に誰かが言ってそうなことですが、思いついたので投稿。
『「萌え」と発情はどこまで結びつくか』
とか
『萌え系議論の整理』
の関連の話になりますが。
萌えと言うのは性交そのもの連想がたどり着く前に、性交を間接的に想起させるシンボル、たとえば女の子とか下着とかを強調して、連想が性的になってしまう前にストップさせる事なんじゃないかなあ、と想像しました。
ストックホルム症候群で恐怖が時間の経過で愛情に変わるように
萌えも性交の欲求の照れ隠しで間接的な性シンボルを強調してたら、基点にあった性交の欲求を忘れてしまう、というか。
ストックホルム症候群の症例をして恐怖が愛情と結びつくというより、恐怖が愛情にすりかわるという言い方の方がシックリくるように
萌え症候群も時間の経過によって性欲が、他のモノ。例えば『ネタ』とか『笑い』や『美的感覚』もしくは『観賞』にすりかわった。という言い方もできるんじゃないのかなあと。
心理学とか詳しくないので、このあたりは突っ込んでいただけると助かります。
「おっぱいぱんつパラダイム」は、性交への欲求を徹底的に排除する。そして、「おっぱい」「ぱんつ」のみを徹底的に希求する。これは、現実には存在しない欲望のありようである。
しかし、それゆえに、「おっぱいぱんつパラダイム」は、オタクにたいして「ここのエロは笑うためのものだ」というメッセージを明確に示すことができる。「おっぱいぱんつパラダイム」に定位することによって、オタクのエロ妄想を一旦制御し、笑いに向けることができるのである。
(OTAPHYSICA - うさくん『しあわせももりんご』にみるオタク的エロネタ)
引用元では「オタクのエロ妄想を一旦制御」と書いているけれど、
これを一歩進めて間接的エロ要素からエロを想像しちゃいけないという文法が萌えなんじゃないかなあと。
過程(ぱんつ)を際立てて強調することによって、その向こうにある性交という連想に到達させるのを妨げる。
で、この照れ隠しか何かで始めた性シンボルから性交を連想しない事を突き詰めると、性シンボルから性的なものを連想できなくなってしまって、独立した存在になる。その事を萌えというのではないか? という発想に思い至った次第であります。
萌えを感じられない人は萌え要素は『間接的な性交に繋がるシンボル』にしか見えないので、そこから即座に性欲を連想できてしまうために、萌えは欲情を孕むという風に理解してしまう。
単純にいうと萌えとは性欲の隠蔽のために始めた。
間接的性シンボルの強調がいつの間にかメインになってしまって、健全な性的連想が妨げられた状態なんじゃないかなあという仮説を思いつきました。
普通の人が『萌え』に嫌悪感を抱くのは、萌え要素(間接的に性交に結びつくシンボル)に性的なものを即座に連想できてしまう健全な脳の持ち主だからではないのでしょうか?
[nisemono_san]どちらかというと
「潔癖症」的といったらいいのかな。この辺り難しいのだけれども、その一方で擬人化が流行っているのは不思議な感じもする印象が。あと「健全」というと難しいなあーという感じもするというか。「かわいい!」というのが「濡れてる!」というのと一緒ではないように。ただ、この比較だと「濡れてる!」は「かっこいい」でベクトルが一緒なのに対して、「萌え」と「エロ」の文化的コンテキストが一緒なのにも関わらず、そこで迂回すると考えるとわかりやすいかもしれない。つまり、「エロ」がチンコビーンなのに対して、「萌え」は「チンコビーン」を回避させるといったような。リビドー的な流れは同じだけれども。俺は一般人が萌えを嫌いなのは斉藤環氏の説、つまり「そういう訓練を受けていないから」ということのほうが正しい気がするなあ。気がするだけだけれども。で、訓練を受けてもただ単純に性欲的解釈しか生まれないのは「フェチ」なのに対して、性欲的解釈を迂回して初めて「萌え」になれるといったらいいのかなあ。というとMaybe-na氏に怒られるか?